チベット・ポタラ宮に行ったのは2000年5月のことだ。そのあと亡命政府のあるインド・ダラムサラに行きたいと思っているうちに、ダライ・ラマ14世(69)が来日。2005年4月9日、聴衆5,000人が詰めかけた東京・両国の国技館に駆けつけ『思いやりと人間関係』をテーマに、愛と慈悲を講ずるお話を傾聴した。
ポタラ宮に行くには成田空港から上海、西安、そしてポタラ宮のあるラサ空港へと移動。ラサ空港はすでに標高3,500m。ホテルからの送迎バスには、酸素吸入器が備えつけてあるが、まずは酸素の薄さに馴れることが大切だから吸入器を無視する。翌日、憧れ(?)のポタラ宮へ。ポタラ宮は180mの高層寺院が群れをなし、雲ひとつない青空を背景に聳えている。
寺院への急な坂を登る。酸素は更に薄くなり、顔にこそ出さないが、限りなく苦しい。(もしポタラ宮に行かれる方がいたらと思い秘訣を教えますね)。これを登るには、登山の場合と同じくジグザグに登っていくこと、2つ目は、ラマーズ法(分娩法)と同じく、ヒーッ、ヒーッ、フーッの腹式呼吸に専念することだ(男性には無理ですねー)。こうして私は、涼しい顔をしてポタラ宮と、遠方からやってきたチベット仏教徒市民の何百人という巡礼たちをカメラにおさめたのだった。
本題に入ろう。ダライ・ラマ14世は1935年7月6日、チベット北東部タクツェル村の農家の4男として出生。4歳のとき、先代13世の転生者と認められ、ダライ・ラマ14世の称号と共に首都ラサのポタラ宮殿で即位。1950年、毛沢東の人民解放軍の攻撃に対し、国家の危機を乗りきるために、15歳で国家元首となった。'54年、19歳のダライ・ラマは北京の全国人民代表大会に出席し毛沢東に会見。このとき毛沢東から、「宗教は麻薬である!」と唾棄された話はあまりにも有名だ。
こうして中国は、チベットを「改革」するために人民解放軍を送り込み、寺院を片っ端から破壊、何千人もの僧侶を殺害するなどの暴挙に出たため、チベット人は抵抗、武力衝突がチベット各地で起こった。'59年3月10日、「法王が拉致される」という噂が広がって、大規模な抗議行動が起こり、中国軍との一触即発の危機が迫った。この衝突の拡大を避けるため、ダライ・ラマは亡命を決意。馬と徒歩でヒマラヤを越え、3週間後にインド国境に到着。インド政府は同じ仏教徒として、北インドのダラムサラ丘陵地を提供。ダライ・ラマはこの地で亡命政府を樹立し、亡命してきた人々とその子孫、40万人と共に、この地を首都として今日に至っている。
以来、彼はチベット問題の平和的解決を訴えて、世界の50カ国を訪問。'87年にはアメリカ議会で「チベットを非武装の平和地帯に」など、5項目のチベット和平案を発表したが、翌年にはフランス・ストラスブールの欧州議会で「独立は求めない」と譲歩、中国に対話を求めた。‘89年、『非暴力主義』が評価されノーベル平和賞を受賞。‘98年には、「20世紀において、最も大きな影響を与えたアジアの20人」に選ばれた(TIME誌)。
紙幅の都合で現況に飛ぶが、‘05年3月、ダライ・ラマは「中国がチベット文化を保証するなら、チベットが中国の一部であることを受け入れる」と、苦しい表明を行なった。ダライ・ラマの『チベット独立の希望』も、現実の前には妥協しかないのだろうか。
講演で愛と慈悲を説く彼を、私は涙なしには見ることができなかった。