'05年12月、『九州大学 生体解剖事件と7人の医師たち』という講演を聴いた。講師は事件当時19歳、昭和20年(1945年)4月に九州大学医学専門部に入学したばかりの東野利夫氏本人である。
事件は、5月5日にマリアナ基地から出撃したB29爆撃機の1機が、九州・久留米市郊外の太刀洗飛行場を爆撃して帰投中に日本軍戦闘機によって被爆。搭乗員11名がパラシュートで投下したことから始まる。村人たちは猟銃、竹槍はもとより、草刈鎌や鍬まで持ち出し、復讐しようと殺気立った。こうしてアメリカ搭乗員1名は自決、1名は警防団の銃撃で死亡、1名は樹に引っ掛かって大怪我を負ったものの、9名が福岡市西部軍司令部に護送された。
東野利夫著『汚名──九大 生体解剖事件の真相(文春文庫)』によると、9名の捕虜の処遇について、俘虜管理責任者である防空担当加藤直吉参謀のもとに、東京の本部から暗号電報が入った。「1.東京の俘虜収容所はすでに一杯である/1.従って敵機搭乗員全員を送る必要はない/1.情報価値のある機長だけ東京に送れ/1.あとは、各軍司令部で適当に処置せよ」との内容であった。数日後、大森卓軍医(九大医学部外科出身)は加藤参謀から、こう相談を持ちかけられた。「いずれにせよ、捕虜の奴らが銃殺になるのは時間の問題。医学のほうで何か役に立てる方法はないかね」と。こうしてワトキンズ機長だけが東京に送られ、あとの8名は九州大学平光(ひらこう)吾一教授の解剖実習室で5月17日から6月3日の間に、2名、2名、1名、3名の順に生体解剖され、肺、心臓、肝臓などを切除、他の諸器官も標本として切り取られ、死亡した。
講演では、生体解剖当日の様子がイラストで描かれ、パワーポイントでスクリーンに映し出された。執刀は大森軍医、九大医学部第一外科の石村吉二郎教授と5人の助手たち。解剖される米兵の枕元には物々しい軍服姿の高級将校や見習い士官たちが立ち、手術台の横には、後に戦犯法廷で初の女性戦犯となる津村シズ子看護婦長が手術の器具を手渡している。足許には東野利夫たち学生が白衣で(背を向けて)立っており、うち1人は透明な輸液が入った瓶を高く差し上げている。これが東野利夫本人らしい。東野氏は解剖学第二講座平光教授の研究補助員だった。
平光教授は無理に乞われて解剖実習室を貸しただけで、一切手を下さなかった。ただ、うつ伏せにされた米兵の頭蓋骨が糸鋸で四角に開けられており、術者が「平光先生、三叉神経はどこですか」と質問。教授は「黒質はその辺じゃないよ。切開の場所が違う。もっと前の方だ」と脳の固定標本を取りに行き、急ぎ戻ってきて部位を示したに過ぎない、と東野氏は断言する。彼は恩師平光教授の『汚名』を払拭するために、この本を書いたと語った(ちなみに、平光教授は戦犯法廷で重労働25年の刑に処せられた)。
昭和21年(1946年)7月12日、連合軍最高司令部は日本政府に対し、九州大学関係者数名の逮捕令を通告。石村教授は逮捕後の18日午前零時、独房で首を縊って死んだ。遺書に「オロカナ馬鹿なことをしたことを許してください。研究は続けてください。教授方には何と言ってよいか判りませぬ。(略)一切は軍の命令、責任は余にあり。(助手の)高須、森岡、森田、千田、津村、余の命令にて動く。願わくば速やかに釈放されたし。平光君、すまぬ」とあったという。
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