区別・排除・制限は「差別」だ――2006年12月に国連が採択した『障害者権利条約』はこう謳っている。私たちフェミニストはずーっと“区別は差別だ”と言い続けてきたので、嬉しい文言に出会った気持ちだ。だが、憲法「改悪」を急ぐ現内閣は、「男性と女性は当然区別しなければならない。ジェンダーの平等は日本の伝統的な“家族の絆”を崩壊させた」として、憲法24条の“両性の平等”をも変えようとしている。
さて、“学校教育法”の制定(1971年)条項も同じで、障害児の教育は特殊教育として「原則、分離別学(区別・排除・制限)」され、1979年には都道府県に養護学校設置義務が課せられた。2006年、学校教育法が「改正」されたが、分離別学はそのまま活き続けている。この分離別学を推進するために2002年、“認定就学制度”が導入され、「障害をもつお子さんのためには、特殊教育のほうが教育効果が上がりますよ」と行政に言われて、その気にさせられた保護者も少なくない。
さらに2004年、“障害者発達支援法”の制定によって、従来「障害」に含められなかった子ども、ちょっと変わった、ちょっと個性が強いとみられていただけで普通学級で学んでいた子どもも、発達障害児とされ、特別支援学級や特別支援学校に区別・排除・制限されるようになった。世界の潮流として(サラマンカ宣言で採択された)インクルシーヴ(包括的)な教育が主流になりつつある現在、日本の教育はまさに逆行していると言う他はない。
私が代表を務める「性を語る会」主催のシンポジウム『発達障害児・者への理解と支援』が、去る7月、アーニホールで行なわれた。『障害者権利条約』は50条から成っているが、その24条“教育”の1‐aは、「人間の潜在能力、尊厳、自己の価値に対する意識を十分に育成し、人権、基本的自由、人間の多様性の尊重を強化する」と規定されている。この「自己の価値に対する意識を十分に育成する」、「人間の多様性の尊重を強化する」という教育目標は、今回のシンポジウムのスピーカーで、LDとADHD※という障害をあわせもつという15歳、中3の溝井英一朗くんが見事に意見を述べ、会場をあっと驚かせた。彼はこう発言したのである。
「僕はずーっと考えていたんですけど、LDとかADHDは障害なんでしょうか?逆に進化じゃないですかね。
LDはできること・できないことにデコボコがあるでしょ?昔から生き物は環境に適応して自らを変えていったりして進化してきたと思うんです。
だから、人間も、他にできないことがあっても、どこかにあるずば抜けたところをどんどん使って、前に出て行くべきだと思います。なんでかというと、パソコンが出てきましたよね。1960年代ぐらいから、電子機器が出てきた。だったら僕のように読む力、書く力は、いらないんじゃないか?
おとなたちは、ぼくらのことを、その部分が退化してきたというけど、そのかわりパソコンとか扱う若者の方がすごいじゃないですか。僕も含めての若者ですけど(笑)。
パソコンを使えるので、「そっちに適応して、もっともっと前に進んでいこうよ」という想いを、生き物として、人間として、本能的に察知し、より前進しようとしている形がLDやADHDじゃないかと、僕は思うんです!」
また、同24条“教育”の2‐b「障害児が自らの住む地域社会で、他との平等に基づいて、クラスの一員として受け入れる(インクルーシヴな)質の高い、無償の初等・中等教育を受けられる」は、英一朗くんのご両親の壮絶な葛藤と闘い、協力によって見事に実践され、地域にしっかり根づいたようだ。
専門家からLD、ADHDの子どもや青年の話を聞かされたり、関連の本を読んでも理解できなかった私たちの前に、その障害を堂々とカミングアウトし、「ぼくらはこうなんです」と、発言してくれた溝井英一朗くんとそのご両親のおかげで、今後、子どもの教育に携わる私たち、また同じ障害をもつ保護者の方々は、予想もしなかったパワーを得、理解を深めることのできた今回のシンポジウムであった。
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※ 軽度発達障害LD、ADHD(注意欠陥多動性障害)、高機能自閉症など、最近注目されてきた障害の総称。LDは学習、ADHD は行動、高機能自閉症はコミュニケーション障害といわれており、知的障害を伴わないため、軽度と呼ばれる。
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