2007. 9月

       
  その時、母は叫んだ!――沖縄戦「集団自決」――  
 

「性を語る会」代表  北沢 杏子

 
       
   

 イチカリールウェーラ、イチチュシヤサ(人間は生きられるまでは生きるべきだ)。死ヌセイ、イチヤティンナイサ(死ぬのはいつでもできる)。手リュウ弾ヤ、シティレー!(手榴弾は捨てなさい!)。ンナ、立テ!(みな、立て!)
 1945年3月28日、沖縄県・渡嘉敷島の「集団自決」。村長の「天皇陛下万歳」を合図に、島北部の日本軍陣地近くに集められた村民たちは、村役場を通じて配られた手榴弾を石に打ち付けて炸裂させ、329人の命が失われた。
 冒頭の「手榴弾を捨てなさい!みな、立て!」と叫んだのは、当時6歳だった吉川嘉勝さんのお母さんだ。その日、吉川さん一家(父、母、姉4人、兄、義兄、本人)9人は円陣を作り、兄と義兄が手にした手榴弾を石に打ちつけた。が、爆発しなかった。その時、お母さんが叫んだのだ。「手榴弾を捨てよ!みな、立て!」そして一家9人は生きた。いや、姉の1人は妊娠していたから10人が生きのびたのである。「命どぅ宝」は古くから伝えられた沖縄の人びとの魂の言葉だ。吉川さんのお母さんを讃えたい。母は偉大なり!と。

 ところで文部科学省は、来年4月から使われる高校日本史の教科書検定で、沖縄戦の『集団自決』への日本軍の強制・関与の記述を削除。「日本軍により集団自決に追いやられた」「日本軍に“集団自決”を強いられた」などの記述を、「追いつめられて集団自決した」などに変更させた。
 また、軍関与を指摘した『沖縄ノート』の著者大江健三郎氏と出版元の岩波書店を「名誉毀損だ」として、元日本軍梅沢裕隊長、赤松喜次隊長の遺族らが大阪地裁に提訴(2005年8月)、2007年8月23日、証人尋問が行なわれた。証言に立った旧陸軍将校は「『1個は敵に、残り1個で自決せよ』と兵器軍曹が20余名の島の青年たちに手榴弾を配ったというのは、誰かがつくった作文だ」と否定。訴訟は9月、福岡高裁那覇支部で出張法廷が開かれる。

 こうした事態は、沖縄県民はもとより全国の心ある人びとの怒りをよんだ。沖縄県議会と県内41全市町村議会は2度にわたり、検定意見の撤回・同記述の回復要請の意見書を可決。来る9月29日には宜野湾海浜公園で撤回を求める県民大会が開かれる。
 沖縄戦で父母を亡くした県遺族連合会々長仲宗根義尚さん(当時小4)は、「沖縄戦で“集団自決”が起きたのは、住民を巻き込んだ地上戦があったからだ。戦争の悲惨さの事実を教科書を通して子どもたちに伝えることこそが、人類の悲願である世界の恒久平和の原動力です」と述べている。
 沖縄尚間高校付属中学2年の匹田崇一郎君(13)は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で行なわれた追悼式の日、『写真の中の少年』という祖父を主題にした自作の詩を朗読した。
 「豪の外でアメリカ兵の声/“出て来い”と叫んでいる/出ていくと殺される……」この詩を書いたきっかけは、米軍の報道員が撮った一枚の写真。沖縄戦の末期、米兵の呼びかけで防空壕から白旗を掲げて出てきた憔悴しきった人びとの中に、自分と同じくらいの少年がうずくまっている。それが祖父だった。
 「何を見つめているのだろう/何に震えているのだろう……」
 詩の冒頭は、そのうずくまった少年である祖父の恐怖を推察する言葉から始まっている。匹田少年は「祖父が生きてくれたから、いまの自分がある」と、この詩を力強く次のように結んだ。
 「必死で生き抜いてきた少年がいたから/僕がいる/僕はその少年から受け継いだ/命のリレーを大事に絶やすことなく/僕なりに精一杯生きていこう」

 現在、教科書から次々と削除される集団自決、慰安婦問題、南京虐殺……。子どもたちは日本の過去の真実の歴史を学ばなければならない。正しい歴史認識こそが、この少年の詩のように、平和への道を拓くのだから。

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