2008. 5月

       
 

沖縄戦「集団自決」・教科書検定を操った人びと

――その1――

 
 

「性を語る会」代表  北沢 杏子

 
       
   

 去る2008年3月28日、沖縄戦での「集団自決」には旧日本軍の深い関与があったとする判決が大阪地裁(深見敏正裁判長)で下された。
 この裁判は、渡嘉敷島・旧守備隊長の実弟赤松秀一氏と座間味島の旧守備隊長梅澤裕氏が2005年8月5日に、大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書、1970年刊)の「旧日本軍関与」の記述を、“名誉毀損”として訴えたものである。この裁判は、高校教科書検定に大きく影響し、文科省は、2008年からの歴史教科書から「軍の強制」を示す記述を削除せよと決定。沖縄県民はこれに抗して、検定意見撤回を求める11万人集会を開いた(2007年9月29日)。
 このあたりの事情は衆知のことと思われるので、高齢の梅澤氏(91歳)や、本人ではない実弟の赤松氏がなぜ提訴に踏み切ったのか?その経緯を大江健三郎氏の「『人間をおとしめる』とは、どういうことか――沖縄『集団自殺』裁判に証言して」(雑誌「すばる」2008年2月号、集英社)から探ってみたい。

 裁判のきっかけとなった『沖縄ノート』は、沖縄の人びとが“琉球処分”によって日本の体制の中に組み込まれ、徹底した皇民化教育を受けた結果、沖縄地上戦の悲劇にまで至ったこと。戦後も本土から切り離され、アメリカ軍政統治の巨大基地として今日に至っていること。そうした沖縄の犠牲のもとに本土の繁栄が築きあげられたことを全く認識していない日本人の一人として、「自分を変えることはできないか?」と繰返し自身を問う形で書き進められている著作だ。
 もともと難解な大江氏の文章に比べ、同じ「集団自決」をテーマにした曽野綾子著『沖縄戦・渡嘉敷島集団自決の真実――日本軍の住民自決命令はなかった!※』((株)ワック 2006年刊)は、関係者・生存者のインタビューを基とした、誰にもわかりやすい著作として対照的である。
 2007年11月9日の法廷で、原告赤松秀一氏は、『沖縄ノート』のことを知ったのは曽野氏の著書を通じてであり、『沖縄ノート』は入手したが、兄についての箇所を飛ばし読みしただけだと明言。梅澤氏は『沖縄ノート』を読んだのは、この裁判が始まった以降のことだと証言している。
 
 話を雑誌「すばる」に戻そう。そもそも今回の裁判の原告である赤松秀一氏は、曽野綾子氏の本※が出たことで“兄の旧隊長の名誉は守られた”と考えていたという。ところが2004年、兄の嘉次元隊長と陸軍士官学校で同期だった山本明氏に言われて、後に原告側の弁護士となる徳永信一氏に会い、高校の歴史教科書にまで兄が「自決命令を出した」と書かれていること。大江氏の『沖縄ノート』も版を重ね、「兄を極悪人であると決めつけた内容が修正もされずに書かれて売られていることを知った」。こうして赤松秀一氏への、ある意図を持った働きかけは、すぐさま徳永弁護士によって梅澤裕元隊長に伝えられ、裁判の準備が始まる。

 2007年8月4日付琉球新報の目取真俊氏(作家)のエッセイによると、「もともと、赤松・梅澤両氏は裁判に関心があったわけではない。二人に働きかけて裁判を起こさせたのは、旧軍関係者と靖国応援団を自称する弁護士たちだった」「そこには当初から、『集団自決』への軍命令を記した教科書記述をめぐる問題があった。(略)2005年6月4日、藤岡信勝氏を代表とする自由主義史観研究会の集会で、藤岡氏は『すべての出版物、子ども向けのマンガ他をしらみつぶしに調査し、あらゆる手段で嘘をなくす』とぶち上げた。2ヵ月後の8月5日、梅澤・赤松両氏は大阪地裁に、大江氏と岩波書店を訴える。その裁判を支援し、傍聴に動員をかけたのは自由主義史観研究会や新しい歴史教科書をつくる会などのメンバーであった」と。
 さもありなんと思わせる一文である。  (次号につづく)

※『ある神話の背景――沖縄渡嘉敷島集団自決』(初版1973年、文芸春秋社)

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