イングリットは、この統計をもとに市の社会福祉課に日参して、島に8ヵ所の妊娠コントロールセンターと2つの診療所を設置させることに成功。妊娠コントロールセンターには、イングリットの息のかかった助産師が常時詰めていて、地域の女性たちに避妊の指導と避妊具や避妊薬の無料配布を行なう。そして週に2日は、イングリット自身がセンターをまわり、カルテのチェックやIUD(子宮内挿入器具)など、専門的な処置を行なった。ちなみに島の総人口55,000人のうち、妊娠可能の13歳から48歳までの女性は11,000人。これを8つのコントロールセンターと2つの診療所で、徹底的に「望まない妊娠はしない」へと、もっていったのだ。
こうしたトマソン夫妻の運動が島の人びとに支援されないはずはない。まず、島の新聞の家庭欄がコラムを連載。ついで島のテレビ局が毎週日曜日に1時間の放映を開始した。このキャンペーンが引き金となって、教師、保健師、医師、ソーシャルワーカー、青少年余暇活動のリーダーなどによる問題提起や、意見交換、討論会などが開かれるようになっていった。「私は市の福祉局に言いにいったのよ。5ヵ年計画でこの島から中絶をゼロにしてみせます。だからその間、避妊具や避妊薬の無料配布と私たちの運動に予算を取ってくださいって」。
この提案は市福祉局を通じてスウェーデン政府福祉省に強いインパクトを与えた。例えば、中絶手術1件につきの医療費(スウェーデンは国民総健保)で、どのぐらいの避妊具、避妊薬が購入できるか?しかも、女性たちにとって望まない妊娠と中絶、または望まない出産から解放されることは、どんなに望ましいことか?イングリットとトマソンの運動は、2年間の国の助成金を得て、着々と成功をおさめていった。
1975年1月1日は、2人にとって記念すべき日となった。2人を中心としたゴットランド島の運動の結果、この日を期してスウェーデンでは中絶法(法律)の制限が撤廃されたのだ。既婚、未婚、年齢を問わず、本人が希望すれば無料(健保)で中絶手術が受けられ、避妊具、避妊薬の無料配布も実施された。ただし、改正中絶法は妊娠12週以内に限ってで、それを過ぎた場合は、従来の中絶法に準拠して、本人と相手が福祉課に呼び出され、調査カードの作成、産婦人科医の診断書や同意書の提出など、いろいろと手続きが面倒になる。マルクスは授業で「中絶するなら12週以内に」を力説し、中絶を希望する生徒がいれば、ただちにイングリットの病院に送り込む。こうして、学校教育と産婦人科医、保健師、助産師の連携によって、ゴットランド島は「望まない妊娠はしない、させない島」として脚光を浴びる地名となった。
ここでお断りしておきたいのは、これはあくまでも1970年から1980年にかけての取材である。「現代性教育月報」2008年6月号の合満明日香さんの報告『失われた共同体を求めて――ゴットランドにおける事例から――』によると、マトソン夫妻が提唱し実践した島ぐるみの熱烈な運動は、いまや御多聞に漏れず、インターネット時代、個人化社会となり、その影が薄れてきたという。しかし、あの熱かった1970年代の助産師と若者たちの対話を復活させ、以前のように性教育の組織的ネットワークの形成を実現しようとする試みが、2007年8月から始まっているということだ。
いま、日本の性教育バッシングによる性教育放棄はまさに若者へのネグレクトだと、私は考える。知識を与えられぬまま、性感染症、HIVの感染や、望まない妊娠・中絶・出産は、正しい情報を得て、保健行動を選択することによって回避できるはずである。ある県で、保健所や病院の出入りしやすい場所に、10代の生徒たちが制服のままで自由に相談できる「おしゃべりルーム」を設置しているのを私は見てきた。毎週木曜日の午後4時から5時まで、保健師やカウンセラーが詰めていて相談相手になり、その内容によって、しかるべき産婦人科や泌尿器科、または心療内科などに紹介すると聞いた。10代の若者たちが不本意な思春期、青春期を送らないように、学校教育と保健関係専門職の連携の実現を望みたいと、私は切に思う。
生徒に避妊法を教えるマルクス
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