2009. 2月

       
 


戦争画を描いた戦時中の画家たち

 
 

「性を語る会」代表 北沢 杏子

 
       
   

 『玉ねぎの皮をむきながら※』は、ドイツのノーベル賞受賞作家ギュンター・グラス(1927〜)が、ナチスの親衛隊員だったことを本書で告白し、世界に衝撃を与えた……という自伝文学である。私はこれを読みながら、少年だった彼がナチス親衛隊に志願したとしても、日本でも同じ頃、同じように少年たちは特攻隊員や少年兵として志願したのだったから、それは軍国主義一辺倒の教育によって洗脳された結果であり、責任は、軍主導の政治を強行した指導者側にあると考える。では、少年ではなく壮年の作家や画家、芸術家はどうだったのだろうか?

 私はかつて東京・竹橋の国立近代美術館が開催した『戦争画展』を観たことがある。当時の著名な画家たちの戦意昂揚の戦争画の中で、最も印象に残ったのは、藤田嗣治の、縦1.8m、横3.62mのキャンバスに描かれた「サイパン島玉砕」――追いつめられ死傷した兵士たちの累々たる屍に混って、瀕死の母親の胸に抱かれた乳児とその足許に描かれた小さな野の花の絵だった。
 過日(2009年1月)、上野の森美術館で『レオナール・フジタ※※展』を観た。だがそこには「乳白色の肌」と讃えられた最盛期の裸婦像や、幻の群像大作といわれる「争闘」、晩年の宗教画などが展示され、私が観たいと思った戦争画は(当然のことながら)見当たらなかった。

 近藤史人著『藤田嗣治――“異邦人”の生涯』によると、日中戦争から太平洋戦争にかけて日本の画家たちが描いた戦争画153点は、敗戦後、占領軍に接収され、ひそかに運び去られたが、1966年、ニューヨークで活動していた報道写真家中川市郎が、米空軍情報局美術・博物館部の協力を得て、オハイオ州とバージニア州の軍需物資倉庫に放置されていた日本人画家による戦争画を発見。8日間かけてカメラに収めるとともに、接収された画のリスト(14点の藤田作品を含む)を入手した。
 中川が撮影した写真は大きな反響を呼んだ。日本政府はただちに返還交渉を開始し、1970年、「無期限貸与」という形で返還された。しかし、侵略戦争の残虐な絵画を一般公開することははばかられ、再び国立近代美術館の倉庫に埋もれることとなったのだった。

 話は遡って1946年初頭、敗戦により占領軍GHQの統治下に置かれた日本では、極東裁判にかけられる戦犯の個人審査が始まっていた。そんなある日、藤田のもとにGHQからの呼び出しがきた。「戦争画を接収したいので協力してほしい」と。田中某の『評伝 藤田嗣治』によると、GHQの将校は、「国際的に有名なあなたは、まずいことに戦争画を描きましたね」と、戦争責任を追及したとある。同評伝には「フジタは200人余りの著名な画家が描いた戦争画を集めることを承諾するのと引き替えに、その将校と協力関係を結んだ」と記してある。

 戦争中の画家たちは、軍部の要請に不承不承、または進んで従い、戦場の最前線に派遣されては戦争画を描いたのだった。それが発覚すれば戦争犯罪人のリストに挙げられる――との噂が流され、藤田は画壇から総スカンを喰う破目に陥れられる。ある日(これも真偽の程は不明だが)日本美術会書記長の内田某が訪ねてきて、「戦争画を描いた画家の代表として、当局に出頭してほしい」と要請される。
 藤田自身の手記によると、「私は戦争発起人でもなく、捕虜虐待をしたわけでもなく、日本に火がついて燃え上がったから、一生懸命消し止めようと力を尽しただけだが、私が戦犯というならば服しましょう。死も恐れませんが、できれば太平洋の孤島に流してもらって、紙と鉛筆だけ恵んでもらえれば幸いです」と答えて、この話を打ち切った、とある。
 
 結局、戦争画を描いた画家たちの戦犯説は流言飛語で終わったが、日本の画壇に愛想を尽かした藤田は、その後フランスに帰化し、洗礼を受けて、1968年、かの地で死去。享年81歳であった。

※ 『玉ねぎの皮をむきながら』 ギュンター・グラス著 依岡隆児訳 集英社 2008年刊
※※レオナール・フジタ:晩年、藤田はフランス国籍を取得、洗礼を受けてレオナール・フジタと改名した。

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