パレスチナの地中海沿岸ガザ地区での、イスラエル軍対ハマスの戦闘の報道に胸を痛める日々だが、そんなさ中、映画『シリアの花嫁』(監督 エラン・リクリス)を観て、イスラエルの更なる領土拡張の野望と、その野望の下に晒される人びとの過酷な運命を知った。
映画の舞台はゴラン高原北部に位置するマジュダルシャムスという町。もともとシリアの領地だったのだが、1967年6月に勃発した“第3次中東戦争”でイスラエルに占領された。同じ戦争でイスラエルに占領されたヨルダン川岸とガザは、1948年5月のイスラエル独立宣言前までは、イギリスが支配するパレスチナ委任統治領だったのだが、ゴラン高原は第1次世界大戦以来、フランスが支配するシリア委任統治領だった。
だから、もともとシリア・アラブ共和国に帰属する領土であり、従って現在も、シリアはゴラン高原を自国領だと主張しており、イスラエルというユダヤ人国家の存在も認めていいないという。
そんな中で1981年、イスラエル政府はゴラン高原を一方的に、自国領として併合した。ゴラン高原の住民は、望めばイスラエル国籍と市民権を取得できるが、ほとんどの住民はシリア人としての帰属意識が強く、イスラエル国籍を取得しようとはしない。結果、ゴラン高原の住民たちのほとんどは、「無国籍者」となっている。
映画『シリアの花嫁』の主人公モナは、ウェディングドレスに身を包み、父方の従兄弟のシリア人タレルと結婚するために、親族一同と共にイスラエルの軍事境界線のこちら側に到着する。一方、シリアの花婿一行を乗せたバスも、境界線の向こう側に到着。イスラエル領のゴラン高原とシリアの間には非武装中立地帯(ノーマンズランド)があり、そこには国連の“兵力引き離し監視隊”が駐留している。
幅200mほどの非武装地帯の双方には、それぞれ遮断機が降りており、花婿のシリア側一行と花嫁のゴラン高原側の人びとは、拡声器を使いながら会話を交わす羽目になる。
というのも、ゴラン高原側のイスラエル検問所の係官が、花嫁モナの通行証に「出国印」を押してしまったからだ。それに対しシリア側の検問所の係官は、これを突き返し修正させない限りシリアへの「入国は不可」と言い渡したのだ。「約束の日に結婚できないなんて不吉……」と嘆くモナのために、ゴラン高原の国連事務所で働く国際赤十字委員会のスタッフ、ジャンヌは、両検問所にかけあったり、エルサレム内務省に電話するなど東奔西走するが、一向にらちがあかない。
この映画の中の「家族」の描き方がまた興味深い。イスラエル併合に反発し、シリア新大統領支援のデモに参加して警察に目をつけられているイスラーム・ドゥルーズ派の父親ハメッド。ゴラン高原から脱出してロシア人の女医と結婚したため勘当された長男。イタリアで何やら商売をしているらしいプレイボーの次男。親が決めた不本意な結婚生活から飛躍するために、家を出てイスラエルの福祉大学に進学しようとしている長女のアマル。シリア側の柵から拡声器で、モナを祝福する弟の大学生。ことのなりゆきをはらはらと心配し、抱擁を繰り返す古風な母親……モナの結婚を機にゴラン高原の実家に集った、こうした家族のそれぞれが、和解し愛を取り戻していく過程が、笑いと涙を誘う。
この映画の書評では「政治によって分断される家族の悲しさではなく、それを乗り越えていく人びとのたくましさ」を絶賛している。
そう、たくましさ!ラストシーンで花嫁のモナは、右往左往している周りの親族から離れて、ひとり非武装地帯の柵をくぐり抜け、シリアへと歩み始める。はっと気づいて振り返る姉のアマル。危険を冒してもなお、許可なしの境界線を歩む妹。その勇気と決断をたたえる微笑みがアマルの表情一杯に広がる。
アマルは「希望」という意味――確かにこの映画で描きたかったのは、どんな苦境にあっても、よりよき未来、非暴力、愛に対する希望を持つことができるという人間賛歌だったのである。
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