去る8月末(09年)、私は奄美大島での講演を機に数人の方からの“聴き取り”と、奄美に関する数冊の文献を購入し、宿泊先のホテルで読みふけった。
知らなかった!まったく知らなかった奄美諸島の歴史の経緯に、私は一瞬呆然となった。過去の日本が西欧諸国に追いつけとばかり、台湾や朝鮮を植民地とし、中国北東部に傀儡政権を設立して支配下に置こうと企てたことは知っていたが、いまから400年も前に、奄美諸島、沖縄諸島に薩摩の軍勢が押しかけ、武器を持たない島民たちの応戦に「棒から火の出る武器(鉄砲)」を向けて虐殺、“植民地にした”ということは露ほども知らなかったのだ。
1609年3月4日、津島藩(現在の鹿児島県)の樺山久高大将率いる薩摩の軍勢3000余名は、100余艘の船団を組み、薩摩半島南端の山川港を出港。同日、吐喇列島の口永良部島に上陸。7日には奄美大島を制圧して、16日、徳之島へ。激しい戦闘が繰り広げられ、大島に続いて大勢の島民の犠牲者を出した。ついで24日、沖永良部島を経て25日には沖縄島へ。4月1日、首里城が占拠され、5日には琉球王国の王、尚寧が城開け渡しを余儀なくされる。この間僅か1ヵ月。奄美諸島、沖縄諸島は大和の統治下に置かれ、以後、苛酷な租税と課役は島津藩が定めるところとなったのだった。
島津藩はまず、琉球王国に統治されていた奄美を琉球から切り離すことから始めた。1623年に出された規定には「(奄美の)諸役人は、琉球から役人の象徴である鉢巻(冠)を授かることを禁止」「島中の者どもは百姓にいたるまで草履(大和人の履物)を履くべし」とあった。つまり、「奄美は琉球ではない」と規定することで、それまでの琉球と奄美の関係を政治的に切断したのだ。その一方で、大和風のひげ、髪型、衣装をつけること、日本名をつけることを禁止。「奄美は大和ではない」との意識を(罰則まで設けて)、島民たちに強制したのだった。この日本名禁止に関するエピソードを紹介しよう。
1955年に起こした『奄美自然の権利訴訟』で原告名“アマミノクロウサギ”を名乗って、「日本初の動物原告」とメディアを湧かせた、環境ネットワーク奄美・代表の薗博明氏にお会いした時、元来奄美の人びとの氏(姓)は1文字だったが、本土での就学や就職、結婚時の不利益を考慮して、日本人風の2文字、3文字に改姓することが少なくなかった。だが、薗家は祖父も父も頑として薗の1文字を通したという。
「奄美は琉球ではない」、だが「奄美は大和でもない」と矛盾した規定を設けたのには、琉球を間に立てた対明貿易の利益を得るのが目的だった。ところが当時、日本は朝鮮に出兵し、明は朝鮮支援のために20万人の軍勢を出しており、幕府と明の関係は危機一髪という状況だった。もし、薩摩が琉球を侵略し植民地にしたことが露見すれば、琉球と明との貿易自体に支障をきたす恐れがある。そこで、「琉球(奄美を含む)は大和ではない」と、大和めくことを禁止したのだった。
植民地下、薩摩は奄美に黒糖を貢献することを強制した。島民たちの食糧自給の土地はすべて、上納義務のための砂糖きび畑に変えられ、薩摩は黒糖の見返りに米を配給。その比率は極端に低く抑えられ、島民たちは搾取と飢えの日々に追いやられた。薩摩は、大阪の市場で高い値で売れる「奄美の黒糖」で富を蓄積して500万両を超える借財を返済し、明治維新という近代国家革命の担い手としての膨大な軍事資金を手に入れたのだった。
「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重疎外の中で、自己のアイデンティティを喪失してきた奄美は、日本の敗戦と同時に米軍の統治下に置かれ、日本本土への航路も遮断。必死の密航が始まる。次回は、これも私の知らなかった、奄美返還のアメリカ側の戦略について記したい。
参考資料
・「奄美返還と日米関係」――ロバート・P・エルドリッヂ著(南方新社刊)
・「奄美自立論」――喜山荘一著(南方新社刊)
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