2009. 12月

       
 


奄美諸島の歴史を辿る その2

――米軍統治は北緯30度以南か?28度40分以南か?――

 
 

「性を語る会」代表 北沢 杏子

 
       
   

 1945年8月15日、20万人の犠牲者を出した沖縄の地上戦を経て、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下による大惨事の後、敗戦。同年9月2日、東京湾での降伏文書調印によって、日本は米軍及び司令官マッカーサーの支配下に置かれることになった。
 翌46年1月29日、連合軍最高司令官(SCAP)は、日本政府に対して、奄美諸島と沖縄諸島を含む北緯30度以南のすべての島を日本から分離し、米国の戦略的信託統治下に置くという指令を発表した。これに対し、後に駐日大使となる日本通のライシャワー氏(当時、米国務省勤務)は、米国が自衛のための軍事基地を必要とするなら、「沖縄諸島を中心とする北緯28度40分以南だけでよいのでは?」と勧告した。だが、その勧告は受け入れられず、同年2月2日、“30度以南”とする「SCAP指令」がラジオで発表された。

 この「2.2布告」のニュースは、奄美の島民たちに大きな衝撃を与えた。奄美支庁長池田保吉は急きょ、占領軍の指示を伝達し住民の要望を上申するための連絡機関として「大島郡連絡委員会」を設置したが、占領軍はまだ到着しておらず、指示もないまま奄美は不安な状況にさらされた。前回の「奄美は琉球ではなく、大和でもない」という二重疎外の中で歴史を刻んできた奄美は、次には「奄美は日本でもなく米軍政下でもない」運命に翻弄されたのだった。

 実際沖縄諸島の占領管理を担当する米海軍司令部は、「沖縄だけで手一杯」であり、「奄美諸島を統治するには年間200万ドルかかる」として、管轄範囲を奄美まで拡張することには反対だった。
 だが、SCAPとマッカーサー司令官は、北緯30度以南統治に固執した。というのも、この時期、中国大陸では毛沢東勢力が優勢となり、1949年10月には中華人民共和国として独立宣言。米ソの対立も顕著となり、アジアにおける冷戦環境が決定的となる。おまけに1950年6月には朝鮮戦争勃発という事態に立ち至ったとなれば、もはや自国防衛上、北緯30度の線引きは譲れないと主張した。
 2つめの理由は、第2次世界大戦の終盤になって参戦したソ聯は、日本の南千島列島を占領、領土を拡大していた。米国側には、もしソ聯が南千島を日本に割譲するなら、こちらも奄美諸島を返還してもよい、それまでは保留すべきであるというかけひきもあった。

 1947年、奄美の軍政府は海軍から陸軍に移管され、長官スライターによる島民への締め付けは厳しくなる一方だった。
 集会、言論、出版、信教、平和的結社、労働組合活動の事前検閲制度を指令し、厳しく禁止した。1946年に本土から分離されて以降、渡航、交易、交流が分断され、本土に黒糖や大島紬などを売りに行くこともできなくなり、島民は沖縄や軍政府から物資を購入せざるを得ないという経済的苦境に陥った。この絶望的な状況をさらに悪化させたのは、軍政府が1949年4月末に発表した補給物資(食糧)を3倍に値上げするという通達だった。
 これをきっかけに、奄美の本土復帰運動は盛り上がる。島民の血のにじむような本土への密航や陳情、本土に移住した奄美出身者たちの団結と支援など、熾烈な運動の結果、1953年12月24日、ダレス国務長官の言う「クリスマスプレゼント」により、奄美諸島は日本本土に返還されたのだった。
 本稿は、私がまったく知らなかった北緯30度以南に固執した米軍統治の内幕を、驚きと共に記したものである。

参考資料
・「奄美返還と日米関係」――ロバート・P・エルドリッヂ著(南方新社刊)
・「奄美自立論」――喜山荘一著(南方新社刊)
・「奄美戦後史」――鹿児島県地方自治研究所編(南方新社刊)

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