2010. 1月

       
 


1950〜60年代の青春群像

     ――相澤和子さんの歌集によせて――

 
 

「性を語る会」代表 北沢 杏子

 
       
   

 今から50数年前、私は劇作家、演出家をめざして、池袋の舞芸(舞台芸術学院)に通う学生だった。そのときの同級生で「劇団東演」の代表を務めた故・相澤治夫のつれあいの和子さんから届いた歌集――それを読みながら、遠く過ぎ去った1950〜60年代の社会風景を思い起す。敗戦後の、あの自由と解放の時期を生きた私たち世代の青春を。過去の歴史を反芻するために、彼女の短歌と、それへの私の返信を転載してみたい。

宇宙局星番地72は何処ですか 相澤治夫光って下さい
 歌集ありがとう。戦後の焼跡の池袋。どぶ板を渡るようにして露店の並ぶ狭い路を歩いていった先に舞芸はありました。大きなホールが1つだけの木造のボロ校舎。奥に学長の秋田雨雀※先生が2匹の猫と住んでいらして、私は劇作家を志していたので、よく文章を見て頂きに通ったものです。
 私たち舞芸2期生は16歳から27歳という年齢差のばらばらな、しかし同じ志に燃える30〜40人のクラスで、最年長はシベリアから復員してきた相澤治夫でした。私たちはそれぞれ、タツオ! タダシ! ハルミ! と名前を呼びあっていましたが、彼だけは委員長!と呼ばれていた。その委員長を先頭にホールから、廊下や芝居の大道具・小道具の収納してある物置を通ってホールに戻る輪を作って、たしか秩父音頭かなにかを歌い踊りながらぐるぐる廻ったのを思い出します。

君の遺稿の間より出ず 60年安保闘争警察からの呼び出し状が
 当時私たちは「文工隊※※」という小グループを作って、工場前の路地などでプロパガンダの芝居を演じていました。終業のサイレンが鳴って工員たちがぞろぞろと帰路につくとき、私たち文工隊のまわりを取り囲んで観てくれるのが嬉しかった。デモにもよく繰り出しました。
 ビラを貼って、いかに素早く逃げるかの練習もした。私たちを捕まえるとき、警察官はチョークで背中にバツ印を大きく描くのです。バツ印をつけられ連行される仲間を奪還しにいったことも思い出します。

もんぺ脱ぎ光の中の白き脚 たしかにわれは女と思う
 私もあなたと同じ世代だから実感!戦時中の空爆の下、女子生徒は「必勝」の鉢巻きにもんぺ姿で工場などに動員されていたから、戦争に負けて、もんぺを脱いだ瞬間、強制的軍国少女たちは、はっと「乙女」に戻る……こういう歌は男には作れない、いまの時代の女たちにも作れない感性のほとばしる歌です。
 米軍の占領下とはいえ、「あの時期、あの学校は解放区だったね」と、クラスメートの誰かが言っていたけれど、その後すぐにGHQ※※※の締め付けが厳しくなったから、敗戦後の短い自由・解放時代を生きたのが舞芸時代でした。
 「あなたの芸術への志を民衆のために、女性解放のために使いなさい」と雨雀先生は再三私を諭し、それが現在も私のバックボーンとなっています。

語らずに君は逝きけり シベリアの抑留のことラーゲルのこと
 私の手元にラーゲリ(収容所)の絵を描いた画家、香月泰男の一冊の画集があります。労働と飢えと寒さで死んでいく俘虜収容所の仲間の遺体を軍隊毛布に包み、埋めにいく絵。「死体は山の斜面に埋めた。柩代わりの毛布は墓に入れる前に取り去られ、顔の上には僅かばかりの白布が……」と、画家の解説がつけられています。相澤治夫がこの苛酷な体験をあなたに話せなかったのもわかるような気がします。

 いろいろ思い出させてくれてありがとう。あなたにしかできない作品を、これからも期待しています。

※ 秋田雨雀(1898〜1959);“演劇の父”と称えられた劇作家で詩人、エスペランチスト。
※※ 文工隊(文化工作隊);数人のグループで寸劇、コーラス、演説などを行ない「革命」を宣伝する。
※※※ GHQ;連合軍司令部。マッカーサー元帥が統率していた。

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