ボタン※――不死身のボタンだけが/死を生き延びた/犯罪の目撃者たちが/地中から地表に現れ出でた/彼らの墓の唯一の記念碑だ/ボタンがそこにあるのは証言するためだ/だが肉体はいかにして復活せよというのか/ねばねばした一塊の土くれとなった今では……/鳥が渡った/雲が流れる……
(詩:ズビグニェフ・ヘルベルト)
※カティンの森で発掘されたおびただしい数の遺体は白骨化し、ポーランド将校の制服のボタンだけが残った。
ポーランド映画『カティンの森』(監督 アンジェイ・ワイダ)が岩波映画で上映されている。ワイダ監督(1926〜)の父ヤクプ・ワイダ大尉は1939年9月の戦役でソ連の捕虜となり、ピャチハトキで虐殺された。カティンの森に代表されるポーランド将校12,000名もの大量虐殺は、ソ連の犯行か、ナチスドイツの犯行かが、この映画の進行と共に明らかにされていく。
戦後ソ連の従属国となったポーランドは、検閲が厳しく、言論の自由、表現の自由は厳しく規制されていた。ワイダ監督は言う。「この時代、いかに真実を語ることが難しかったことか。真実を語ろうとした人びとは、虐殺された将校と同じように、死の運命を辿ったのです」と。
ここでポーランドの悲劇的歴史を、ワイダの自伝や映画のテキストを資料に、かいつまんで説明しよう。1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を結び、東ヨーロッパにおける両国の勢力範囲を確定した。
ドイツはその1週間後の9月1日にポーランドを侵略、英仏がドイツに宣戦布告して第2次大戦が勃発した。9月17日にはソ連が東からポーランドに攻め込み、挟み撃ちになったポーランドの避難民は大混乱に陥る。同月28日、モスクワで「友好と国境に関する独ソ協定」が結ばれ、ポーランド分割が完了。
両占領地域の面積は殆ど同等だったが、住民の数はドイツ占領地の2,200万人に対し、ソ連占領地には1,300万人。ポーランド軍人はドイツ、またはソ連の捕虜となった。
1940年3月5日、ソ連共産党政治指令により4月から5月の間にKGB国家保安委員会は、ソ連収容所に抑留されていたポーランド人将校1万数千人を虐殺した。遺体はカティン、ピャチハトキ、メドノエの3ヵ所に埋められた。なぜこのような大量殺戮を行なったのか?
スターリンは、ポーランドの軍人と知識人を消滅することで(映画の中でもクラフク大学に集められた教授たち全員を収容所に送り込む場面が出てくる)ポーランドの指導力を奪って真空状態を作り出し、そこに、ソ連に洗脳された売国奴を転入して共産化しようとしたのだった。そして、この戦略は成功した。
1941年6月、ドイツは不可侵条約を破ってソ連に攻め込む。ソ連は連合国側に加わり、共同の敵としてナチス打倒を約束した。1943年4月、ナチスドイツによって占領されたカティンで、謎だったポーランド将校数千人の遺体が発掘された。ドイツはソ連の仕業としたが、ソ連は(その頭蓋骨を貫いている銃弾がドイツ製であることから)ドイツによる犯罪として糾弾した(これはドイツから輸入した銃弾だったことが後にわかったのだが)。
戦後、ソ連の従属国となったポーランドでは、カティンについて語ることは厳しく禁じられてきた。が、1990年、ゴルバチョフ大統領が自国の犯行と認めポーランドに謝罪。翌年、カティンに引き続きピャチハトキとメドノエの発掘調査も行なわれた。
ワイダ監督は云う。「歴史認識を持たない社会は、人の集合にすぎない。(略)人間の意識に歴史が占める場所を取り戻すために、私はこの映画を製作したのだ」と。過去の日本の侵略戦争における南京虐殺や軍による沖縄市民自決を自虐史だとして否定する中学校歴史教科書を、某県の教育委員会は採択し、4月から使おうとしている。私たちはワイダ監督のいう「歴史認識」を、どうアピールしていけばいいのだろうか?
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