去る4月23日、「性を語る会」主催のシンポジウム『セカンドチャンス!――被害者・加害者が共に向きあう社会とは?――』が、アーニホールで開かれた。“セカンドチャンス!※”は、少年院に措置された少年少女の「出院後の社会復帰を支えよう」と、出院者である当事者たち、および多方面で活動している方々が、サポーターとして設立。出院後さまざまな困難にぶつかるであろう彼ら彼女らへの支援活動を行なう団体である。
当日のゲストスピーカーの1人、8歳の隼君を交通事故で亡くした父親の片山徒有さん(53)のお話で、初めて知った交通事故死にかかわる検察・警察のあり方について、『隼君は8歳だった―ある交通事故死』(毎日新聞社会部取材班 著/毎日新聞社 1999年刊)から、この事件を契機に片山さんらの活動によって司法がどう変ったかを、ここに記したい。
〈1998年11月28日、午前7時50分ごろ、世田谷区砧1丁目の世田谷通り交差点で横断歩道を渡っていた近くの自営業、片山徒有さんの二男で区立砧小学校2年、隼君(8)が建材会社運転手(32)のダンプカーにはねられて死亡。運転手は現場から逃走したが、約40分後、約2キロ離れた路上で業務過失致死容疑などの現行犯で逮捕された。警視庁成城署の調べでは、運転手は渋滞のため交差点内で停止し、前進した前の車につられ発進した際、右から来た隼君を左後輪ではねた〉――これが、当日の毎日新聞・夕刊社会面の記事。21行だけの、よくある目立たない記事だった。
事故発生当日、警視庁広報課からの広報文で事故を知った交通担当記者は「報道の必要はある」と判断したものの、現場には行かず、管轄の成城署に電話取材して上記の原稿をまとめたという。
東京地検がこの運転手を「不起訴」と決めたのは、事故のわずか20日後だった。年間1万件近くもある交通事故死――よほどのことがない限り、起訴さえ行なわれず、犠牲者の遺族は悲しみと怒りの渦中にあって、検死、司法解剖の承諾、遺体の引取り、通夜、火葬、告別式と、慌ただしく時は過ぎていく。父親の片山徒有さんは告別式が終った直後、隼君がどのようにダンプにひき逃げされたのか真相を知りたいと、成城署に問いただしたが、「今捜査中なので言えません。49日が過ぎてから説明します」と、すげない対応。徒有さんは、暮れも押し迫った12月30日に納骨を済ませると、「一刻も早く事故の真相を知りたい」と警察に再三電話。年が明けた99年1月8日の正午過ぎから、翌9日の零時すぎまで「事情聴取」が行なわれた。
ついで1月23日、徒有さんは霞ヶ関の東京地検に行き「加害者の運転手の裁判の日程を知りたい」と訴えた。すると、担当とみられるベテランの女性検察事務官は「処分はおりています。昨年12月18日に不起訴処分が出ています」とひと言。「えっ、不起訴?なぜ?」と尋ねる彼に対し、事務官はそっけなく答えた。「どうして不起訴なのか、またその内容について答える義務はありません。法律でそうなっているのです」。呆然とする徒有さんに、事務官は『検察の処分に納得できない場合は“不当申し立て”ができる』というパンフレットのコピーを手渡した。
一方、事故直後に作成された運転手の調書によると、〈運転手は会社の無線を聞きながら時速10キロのスピードで青信号の交差点に入ったが、渋滞で前の車が停止したため、横断歩道をふさぐ形で止まった。停止直後に無線で同僚から呼び出しを受けたが、運転手は前の車が動いたので、無線交信を続けながら車を発進させた。その直後、横断歩道から6.8メートル先で、車の前部が隼君と衝突した。運転手は実況見分に立ち会った成城署員に「発進した直後に後輪のタイヤがバウンドしたため、何かを踏んだと思い運転席の窓を開けて、右後方を見たが、特別変わったことがないので、そのまま進んだ」〉と答えている。
この調書を受け取った検察は、隼君とダンプの衝突地点が横断歩道から6.8mも離れていたことから、隼君が横断歩道ではなく道路に飛び出した可能性も否定できないと判断。成城署に「補充調査はもう必要ない」と指示し、運転手を不起訴処分としたのだった。運転手はその後、再びハンドルを握っている。
片山さん夫妻は、東京地検から運転手の「不起訴」を知らされてから後、『自分たちで事故の真相を確かめたい』と毎朝、事故発生の時間帯に現場に立ち、当日の目撃者を捜し始めた。
(次号につづく)
※2010年11月、特定非営利活動法人の認定を受け、活発な活動を続けている。
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