目撃者を探し始めてから1ヵ月後、片山夫妻は“対向車線でライトを点滅させて、ダンプの運転手に事故を知らせようとしたドライバー”や、“ダンプのすぐ後にいたスクーターの男性”から、詳しい目撃の聴き取りを得ることができた。
スクーターの男性は、こう語った。「事故現場から200m手前の交差点から世田谷通りに入った時、(下図参照)事故があった交差点に大型ダンプカーが止まっているのが見えました。ダンプは間もなく動き出し、私がダンプが止まっていた交差点まで進むと、隼君はすでにダンプにひかれて倒れており、そばの歩道で女性2人が叫んでいたので、『あのダンプですか?』と指さして聞くと、女性は『そうです』と答えた」。
「その時、ダンプは少し先に進んで信号待ちをしていました。私はスクーターで追いかけ、ダンプの助手席側から何度も手を振って、運転手に事故を知らせましたが、運転手は前方を見たまま発車。急いで事故現場に戻ると、110番通報している人がいましたが、ナンバーを思い出せない様子だったので、私が教えました」。この通報で20分後、成城署はダンプを発見。バンパーの傷およびタイヤの血痕を証拠として調書をとった。
スクーターの男性を含む何人もの目撃者によって、片山夫妻は隼君(8)の命を奪った事故の詳細な状況を次々とつかんでいった。そして検察審査会に『不起訴処分不当の申し立て』をすること、同時に賛同者署名を集めて提出することを決意。申し立てが3日後に迫った5月10日から、事故現場に立ち、街頭での署名を呼びかけた。これより早く、とくに5月3日の毎日新聞朝刊『不当申し立てで両親が署名を募る!死亡事故不起訴』の社会面の大きな記事は、テレビでも放映され、全国的な署名運動へと発展した。
5月13日、片山夫妻は佐藤むつみ、田門活両弁護士に付き添われ、2万1655人分の署名を抱え、東京地検・第2検察審査会に「不当申し立て」を行なった。東京地検は世論の批判に押されてか、5月19日、交通事故による業務上過失致死傷などの刑事処分について、被害者らの問い合わせに答える「交通事件連絡部」を交通部に設置した。
片山夫妻は更に、東京高裁に対し、東京地検に再捜査を求める申し立てを行なった。東京地検は7月、東京高裁の指示を受け再捜査を開始。再捜査のポイントは、新たな目撃者を見つけ出すことだった。
こうして、7月21日、事故当日ダンプの対向車線で白いミニバンを運転し、信号待ちの停車中に事故を目撃した新たな男性会社員から目撃状況を聴取した。この目撃者によって判明したのが、下図である。
隼君は図のとおり、B1から横断歩道上に停止していたダンプカーの前を迂回しB2までに渡りかけたとき、青信号が点滅したため、もとのB1に戻ろうとB3に走った。そのときダンプが発進。危ない!とB4(歩道から6.8m)に逃げ、×で衝突。10.65mの地点で倒れたのだった。しかし、横断歩道から6.8m離れた車道上の事故が「注意義務の及ぶ範囲に入るのかどうか」が争点※となって、再捜査は難航した。
これに対し、交通事故鑑定専門家の駒沢幹也さんは、成城署が事故直後に作成した実況見分の写真に、ダンプのバンパーの左右に隼君の体が当たったとみられる跡が3ヵ所もあることを指摘。隼君がダンプに3度ぶつかったことを示した。このバンパー跡から見て、目撃者らの証言による衝突地点(横断歩道から6.8m離れたB4)は、3度目の衝突であり、身長120cmの隼君とぶつかってよろける距離を加え(6.8mから逆算すると)、最初の衝突は、横断歩道から1.5〜2m前方を横切ろうとしていた時点であり、身長120cmの小さな隼君の姿を確認するには、運転席の位置が高いダンプの運転手は、より細心の注意を払う必要がある。にもかかわらず、運転手は無線の交信を続けながら前進したのだ。結果、「歩道上6.8mは注意義務の範囲に入らない」という前説はくつがえされた。
紙幅の都合で先を急ごう。こうした経緯を経て翌99年2月15日、東京地裁406号法廷で運転手の初公判が開かれ、「業務上過失致死罪」で禁固2年、執行猶予4年の有罪判決が云い渡されたのだった。
全国規模の署名はその後も拡大し、遂に24万票を記録。この「隼君交通事故死を契機とした両親の真摯な運動」によって、東京地検による「交通事件連絡室の設置」(1998年5月)、法務省による(犯罪の種類を限定せず少年事件を含むすべての事件を対象に処分結果を通知する)「被害者等通知制度」の実施(1999年2月)、各警察本部に原因究明が困難な死亡事故を取り扱う「事故捜査指導室」の新設(1998年9月)が決定され、ここに被害者の権利が確立したのだった。
※交通事故の過失論に詳しい西原春夫・元早稲田大学総長の意見
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