2011. 10月

       
 


智恵子はなぜ「トンカラと機を織った」のか?
―『青踏』創刊100周年に寄せて―
 

 
 

「性を語る会」代表 北沢 杏子

 
       
   

 2011年9月1日は平塚雷鳥の「元始、女性は太陽であった」宣言で知られる『青踏』創刊(1911年9月)100周年である。東京都清瀬市男女共同参画センターの入口には、創刊号の表紙をプリントした織物が掲げられている。この表紙デザインの制作者が智恵子だったことは誰もが知っているだろう。今回は、1886年、福島県漆原の酒造家の長女として生まれ、日本女子大卒業後、太平洋画会研究所に通って画家を目指した長沼智恵子が、後に彫刻家・詩人として著名になった高村光太郎と、どのような共同生活(1913〜1935年)をおくったか?なぜ、画家としての自己実現への道を放棄して、“トンカラと機を織る”ようになったのか?を追求する。
 
 1970年代後半、米国におくれて日本でも、女性学(Women's Studies)研究会がいくつか発足したが、そのひとつ「日本女性学会」は1979年創設。私はその会員(あるときは幹事の1人)として、創設者の駒尺喜美さん(当時、法政大学教授)と親しくなった。彼女に会うようになって最初に衝撃を受けたのは、高村光太郎の詩集『智恵子抄』の中の“同棲同類”の「智恵子はなぜ、トンカラ、機を織ったのか?」と問いかけられたときだった。その詩は――、
  同棲同類(1929年8月発表) 私は口をむすんで粘土をいぢる/智恵子はトンカラ機を織る/鼠は床にこぼれた南京豆を  取りに来る(略)/時計はひるね/鉄瓶もひるね(略)/油蝉を伴奏にして、この一群の同棲同類の頭の上から、子午線上の大  火団がまっさかさまにがっと照らす――こうした造形美術者同士の二人の共同生活について高村光太郎は、その著『智恵子の半生』で次のように述べている。「私は人の想像以上に生活不如意(経済的に不安定)で、彼女と二人きりの生活であったし、彼女も私も同じ造型美術家なので、時間の使用についてなかなか難しいやりくりが必要であった。互いにその仕事に熱中すれば、一日中二人とも食事も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓してしまう」と。
 結局、智恵子が、創作の途中で中断しても続けることのできる機織りに自らを転向させたのであった。

 といって、従順に女役割を引き受けたわけではない。彼女は『青踏』創刊年から連載された『新しい女 シリーズ』(読売新聞)に、平塚雷鳥、与謝野晶子、田村俊子、相馬黒光ら25人の中の1人として、『最も新しい女画家 長沼智恵子』「日本の洋画界は日に日に新しい方向へと進んでいる。その中で、男をも凌ぐ新しさを持つ画家」と紹介されている。前述の駒尺喜美著『高村光太郎』の中で著者は、「智恵子がそのような“新しい女”、フェミニストであったこと、女性解放意識に目覚めた女であったことが、やはり人間開放意識に目覚めた“新しい男”高村光太郎と意気投合しあい、同志的な情を交わしたことを銘記しておきたい」と述べている。
 二人の同棲に対し、両家とも猛反対だった。光太郎の父、光雲は東京美術学校の彫刻科教授であり、長沼家は何代も続いた名門の酒造家だったから。だが、二人は光太郎の詩『或る宵』にあるように「われらはあらゆる紛糾を破って、自然と自由に生きねばならない/風の吹くように、雲の飛ぶように」と、1914年、東京・駒込のアトリエで同棲を始める。

 光太郎が法律婚の届け出をしたのは、智恵子が精神的に変調をきたし、統合失調症と診断された1933年だった。彼女に精神異常のきざしが見え始めたのは、その2年前頃からで、翌年にはアダリンによる自殺未遂も起こしている。光太郎が智恵子との法律婚に踏み切ったのは、彼女の彼への献身的な愛と支援への畏敬の念からだったろう。その後、九十九里海岸に転地させるが、半年後にはさらに病状が悪化。東京のアトリエに連れ戻した光太郎は、1935年に智恵子を南品川ゼームス病院に入院させるまで、一切の創作活動を断念し、看護と家事に専念する。
 1938年10月5日に同病院で亡くなるまでの3年半の間に智恵子は、造形的・美術的に優れた千数百枚の切紙作品を遺している。駒尺喜美さんはその著『高村光太郎のフェミニズム』(朝日文庫 1992年刊)の中で、「智恵子が日頃、どれほどの制作意欲を抑圧され、また自らも緊縛してきたことか。それを思うと、わたしはこの“絵集”を、かき抱きたくなる。たった2〜3年の、それも入院生活の中で千数百枚も創ったという造型への執念(略)。「女」は、狂わなければ、自己の表現意欲(自己実現)に従うことができなかったのである」とのべている。

 『青踏』創刊から100年経った今も、働きながら家事、育児、日常の雑事、あるいは老親の介護などで、自己実現を遂げられずに唇を噛みしめている女性たちは少なくないだろう。国際条約としての「女性差別撤廃条約」(1900年)を採択しておきながら、その議定書の批准※は現在も行なっていない日本なのだから。

※議定書の批准により、自国で解決できない性差別の諸問題は、委員会によって調査審議される。国連加盟国192ヵ国のうち186カ国が批准。

感想をお寄せください

 
 

 「月替りメッセージ一覧」へもどる   

トップページ「北沢杏子と性を語る会」へもどる