2012. 8月

       
 

中国の「一人っ子政策」と強制中絶・強制不妊手術  

そのT

 
 

「性を語る会」代表 北沢 杏子

 
       
   

 女性への重大な人権問題として、これはどうしても書き止めておかなければならない。陝西省安康市填坪県で起きた妊娠7ヵ月(28週)の妊婦、馮建梅さん(23)が、中国の「一人っ子政策」※により、強制中絶させられた事件である。
 馮さん夫婦には既に5歳の娘がおり、2人目の子どもを持つには4万元(約50万円)の罰金を納めなければならなかったが、それができないでいたところ、6月2日(2012年)、現地の“計画出産当局”が彼女を拘束、病院に連行して強制中絶が行なわれた。2001年に施行された“計画生育法”で、妊娠7ヵ月以降の中絶は禁止と改定されたにもかかわらずである。
 加えて自宅前には、「売国奴を痛打せよ」「村から追い出せ」と書かれた横断幕が貼られ、夫は失踪して行方不明となった。6月中旬、中絶された女児の胎児の傍らに横たわった馮さんと、それを見守る夫の映像がネットで流されるや、それを見た民衆から、どっと怒りの声が挙がった。中国には「囲観」という言葉があるが、この強烈な映像は世界中の注目を浴び、中国当局は各国人権養護派の標的となった。

■盲目の人権活動家陳氏、強制中絶集団提訴で有罪判決
 中国の「強制中絶」では、山東省臨沂市東師古村の盲目の人権活動家、陳光誠氏(40)が、去る4月22日(2012年)の夜中、何十人もの監視人の眼をかいくぐって自宅の塀をよじ登り脱出。手探りで逃走し20時間も身を潜めた後、支援者の車で北京のアメリカ大使館に保護された事件も記憶に新しい。
 彼は幼少期に高熱で失明。盲学校を経て南京中医薬大学で鍼灸術を学び、2001年に卒業。在学中に障害者である自身への不当な課税を訴えたことを契機に独学で法律を学び、郷里に戻った後は鍼灸師として働くかたわら、「裸足の弁護士」※※として、地域の農民工や障害者、女性の権利擁護活動に取り組んできた。
 2005年6月、「一人っ子政策」によって人工妊娠中絶や不妊手術を強制された被害女性の集団訴訟を(山東省臨沂市当局に対して)起こしたことから、彼の人権活動家としての名は世界中に知れ渡った。
 これに対し当局は、彼とその家族を7ヵ月間自宅に軟禁、翌2006年3月、警察の手で施設に拘禁、6月、逮捕。同年8月、4年3ヵ月の有罪判決が下された。2010年9月に釈放されたものの、付近から雇われた数十人から数百人の監視人から昼夜を問わず監視され続けたのである。

■陳氏、米中のかけひきに翻弄される
 こうした中での、2012年4月22日の脱走と、北京・アメリカ大使館への保護要請であった。これを受けてキャンベル米国務次官補が急きょ訪中したが、対話の前日、中国側は陳氏の安全を保障、彼の逃走中の骨折などの治療を理由に北京市内の病院に移送した。そこには、郷里の自宅で監視人らの暴行を受けているのでは?と心配していた妻や子どもらが待っていた。というのも、5月3日からの「米中間第4次経済対話」のため、クリントン国務長官らが訪中することになっていたからと思われる。
 クリントン氏が会議の冒頭で遠まわしに「人権尊重」を求めると、中国国務委員は「(それは)内政干渉であり、米大使館は国際法と中国の法律を守る義務がある」として、米側に謝罪と大使館関係者の処罰を求め、経済対話の優位に立とうとした。こうした両国間のさまざまなかけひきの経緯があって、陳氏は5月21日、妻子と共に中国を発ちニューヨークに到着。NY大学客員研究員として法律を学ぶことになったが、彼自身は一定の期間を過した後、帰国して再度人権派としての活動を望んでいる。が、果して中国が受け入れるかどうかは(他の亡命人権派中国人の例から見て)疑問だ。ここで、私がこの目で取材し、この耳で聴きとった中国の「一人っ子政策」について記してみたい。

■私が取材した中国の「一人っ子政策」
 1979年から1999年にかけての20年間、私は幾度も中国に行く機会があった。それは中国東北地区三省の教育局および上海市性教育協会の招聘による「青春期教育討議集会」の講師としてだったり、私の著書の性教育絵本、AIDS予防絵本の中国語翻訳出版記念パーティーへの出席だったり、雲南省やウイグル自治区の少数民族の子どもたちの「生活記録写真絵本」制作のための取材だったり……である。
 1979年当時、10億の人口をかかえた中国では、20世紀末の人口を12億に抑えるという目標を掲げ、『晩婚(男性27歳以上、女性25歳以上)、晩育、夫婦1組に子ども1人』という厳しい政策を打ち出した。年々、経済的発展を遂げ、いまや米国に次ぐ経済大国に伸し上がろうという現在と違い、当時の想像を絶する住宅事情の悪さの中で、若いカップルは夜の公園などで辛抱強くデートを重ねながら、許可される結婚年齢まで待つ。
 晩婚組には優先的に住宅(1室)が与えられ、子どもを1人産んだ後、すぐに避妊手術を行なって証明書を添付し申請すれば、2室の住宅と月額5元の児童手当が支給されるという、徹底した「人口抑制関連法」であった。
(次号につづく)

※1979年から施行された人口抑制関連法―20世紀末の人口を12億に抑えるという目標から制定された。
※※毛沢東時代、最低限の医学教育を受けて、農村で医療を担った医師を「裸足の医者」と呼んだことから、この呼称がつけられた。



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