2005年2月、パレスチナ自治区・ビリン村に住む農夫イマードは、4人目の男の子ジブリールが生まれたのを機に小型のムービーカメラを購入し、その成長を記録しようとする。
時を同じくして、イスラエルによる「分離壁」の建築予定地が村の真ん中を分断し、村民が生活の糧にしているオリーブ畑の50%以上が奪われることが判明。さらに入植地拡大に伴う新しいビルの建設も始まろうとしていた。村民たちは毎週金曜日の礼拝のあと、非暴力の抵抗運動を開始。イマードはその様子も撮りはじめる。
イスラエル軍の反撃は激しく、兵士らはゴム弾や催涙ガスで村民たちを追い払う。やがて毎週繰返されるデモに対し、イスラエル軍は村民の逮捕を開始。弟が逮捕され暴力的に車に押し込まれる瞬間を撮影していたイマードの1台目のカメラは被弾して壊れる。
イマードは2台目のカメラを手に入れ、歩き始めた1歳のジブリールや、家族で分離フェンスの向うの畑のオリーブの実を摘みに行くといった私的な情景も撮影。かつての平和だった頃を思わせる映像に心が痛む。
やがてビリン村の非暴力抵抗運動は世界的なシンボルとして知れ渡り、海外からの活動家らが続々と支援に加わる。中でも興味深いのは、イスラエル人の映画監督ガイ・ダビディもこの映画の監督・編集者として加わっていることだ。
村人たちは自分の土地を守るために、繰り返し手作りのプレハブ小屋をクレーンで持ち上げては、フェンス越しに向こう側へ建てて居住権を獲得しようとするが、たちまちイスラエル軍に撤去されてしまう。イマードは抵抗運動のリーダーの1人フィールの弟がクレーンに登った様子を撮影。その時2台目のカメラに銃弾が命中して壊される。
3台目のカメラを手に入れたとき、息子のジブリールは3歳に成長。幼いながらデモに参加するようになっていた。やがてイスラエル兵らは平然と村に入ってくるようになり、リーダーたちを連行し始める。イマードは、弟が連行される様子を撮影。老いた両親が息子を連れ去らせまいとジープの前に立ちはだかる姿に涙を流しながら撮り続ける。
村の子どもたちも隊を組み、石を投げて抗議する。これに対し兵士らは、子どもをも逮捕するのだ。ある夜、兵士はイマードを連行し、軟禁する。容疑は「投石」だったが、撮影を妨害することが目的なのは明らかだ。数日後自宅に戻ったイマードに、妻は「撮影をやめて」と懇願する。妻の手を振り切ってデモ現場に駆けつけたイマードは、真正面から直撃弾を浴びる。が、銃弾は奇跡的にカメラに命中し、彼は軽傷を負っただけで助かる。
4台目のカメラ―2008年、隣接の村々にも分離壁が建て始められ、デモは拡大していった。隣のニリン村では11歳の少年が狙撃兵に撃たれ、その葬儀の直後、17歳の少年が撃たれて死亡。イマードがその撮影を終えて壁の向うのオリーブ畑に行くと、入植者らによって殆どのオリーブの樹が倒され燃やされていた。農夫の一人が、オリーブの樹をかばうようにしがみついて抵抗している。イマードは、これらの撮影にショックを受け、村に戻る途中、トラックの運転を誤って分離壁に激突、重傷を負う。この事故で4台目のカメラは壊れた。
5台目のカメラ―ビリン村の抵抗運動は4年目に入り、ジブリールも4歳に成長した。デモはさらに激化し、リーダーのフィールはガス弾の直撃を受けて即死。葬儀の後、村民らの怒りで昂揚したデモが行なわれ、その撮影でイマードの5台目のカメラは直撃されて壊された。
6台目のカメラ―2010年、イスラエルは古い壁を撤去し、入植地により近い土地にコンクリートの壁の建築を開始した。ジブリールは5歳の誕生日を迎え、手造りのバースデーケーキのローソクを吹き消す。5歳の子どもとは思えない闘志に燃えたジブリールの瞳! !「パレスチナの未来はどうなるのか?」私の脳裡に、その5歳の男の子の鋭い眼つきが焼きついて離れない。
日本での尖閣諸島や竹島、そして北方領土の島々の問題と重ね合わせるには、あまりにもリアルで激烈なドキュメンタリー映画。パレスチナの1人の農夫が撮影し、イスラエルの映画監督が編集した「壊された5つのカメラ」は、エルサレム、ロンドン、ポーランド、ノルウェー、アムステルダム他の国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を受賞している。パレスチナが国連により、独立国として認められる日が一日も早く来るよう期待したい。
感想をお寄せください
|