1年ほど前、私は兵庫県のある小学校の要請で、5年生122人対象の性教育の授業を行なった。この学校では性教育バッシングの現在、果敢にも小1から小6まで一貫して「命の学習」という授業を行なっている。保護者たちも“いじめ”が社会問題になっているいま、この学習の教育効果を認めており、例えば、出産間近なお母さんにお願いすれば、低学年の子どもたちに、おなかを触らせたり、聴診器で胎児の心音を聞かせたりなどの協力も惜しまないという。
担当の養護教諭から送られてきた3年生の感想文には、「赤ちゃんの心ぞうの音はとても速く、一定のリズムで打っていました。小さな卵子と精子が“がったい”して赤ちゃんになります。心ぞうの音を聞いて命の大切さを感じました」と書かれてあった。
この学校の「命の学習」で特筆したいのは、卒業を控えた6年生の3学期に、「死」について考えさせる学習を行なっていることである。教材はレオ・バスカーリア作『葉っぱのフレディ』の読み聞かせから……。
「春が過ぎて夏が来ました」に始まるこの絵本は、葉っぱのフレディが小さな芽から美しい緑の葉っぱに育ち、ダニエルという親友もできる。夏になるとダニエルは、仲間の葉っぱたちに呼びかけるのだ。「さあ、からだを寄せ合ってみんなで木陰を作ろう」と。そして「フレディ、これも葉っぱの仕事なんだよ」。フレディは、その木陰で老人や子どもたちが楽しそうに過ごすのを見下ろしながら、自分の生き甲斐を感じるのだった。
秋になり、葉っぱたちは色とりどりに紅葉して人々を楽しませるが、やがて冬が来ると風のうなり声がきこえ、葉っぱたちは枯れて、1枚1枚と散っていく。淋しさのあまりフレディは聞く。「ねぇダニエル、ぼくは生まれてきてよかったのだろうか」。ダニエルは頷いて、「ぼくらは春から冬までの間、ほんとうによく働いたし、よく遊んだね。人々のために木陰を作ったり、秋には紅葉してみんなの目を楽しませたりもしたよね」と。そして、ある日、夕暮れの中を「さよなら、フレディ」と静かに散っていく。
「次の日は雪でした。フレディは迎えにきた風に乗って枝を離れ、空中をしばらく舞ってから、そっと雪の積った地面に降りていきました……」。最後の頁は「また、春がめぐってきました」で終るこの絵本は、葉が散って土に溶けこみ、樹を育てる力になる――つまり人生は、生から死へ、死から生へとめぐって、いのちは永遠に生きているのだよというメッセージなのである。
このあと、私が訳を担当したスウェーデンの絵本、モニカ・ギーダール作『こころのなかのおじいちゃん』の読み聞かせをしたそうで、続けて児童たちの感想文が送られてきた。
この絵本のストーリーは、6歳の男の子オラが、父方の祖父が亡くなって悲しむ祖母に話しかける。「ねぇ、老人ホームにいるママのおじいちゃんが言ってたよ。“おばあちゃんはずっと前に死んでしまった……だが、愛する人はいつも心の中にいるんだよ”って。だから死んだおじいちゃんは、ぼくとおばあちゃんの心の中にいるんだ」と。
感想文には、「僕が感動したのは、“愛する人は死んでも、いつも心の中にずっといる”という言葉と、それを男の子が信じて、おばあちゃんに伝えるところです。このお話で、命の重みについてわかりました」「私は初めて死について考えました。そして、どんなことがあっても自殺なんかしないで、1日1日を大切に、自分の人生を精一杯生きていこうと思いました」と綴られてあった。
小学校6年生という感性豊かな思春期の子どもたちに、「生きること」、そして「死ぬこと」を教える。何というすばらしい『命の学習』だろう。絵本の選び方にしても、初めから人間の死を考えさせ悲しませるのではなく、『葉っぱのフレディ』で植物の生と死を、次に『こころのなかのおじいちゃん』で、人の生と死を学ぶという繊細な心配りである。
私は感想文を読みながら、性教育とはまさに「性=生」の教育であり、画家ポール・ゴーギャンの言葉「私たちはどこから来たのか? 私たちは何者なのか? 私たちはどこへ行くのか?(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où
allons-nous ?)」のとおり、いのちの誕生から死までを考えさせ、自分の人生を自己決定できる人間を育てる教育だと改めて考えさせられたのだった。
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