先月に引きつづき、「日本国憲法」について記述したい。日本は戦争の終結を促す“ポツダム共同宣言”を、1945年7月26日に突きつけられていたにもかかわらず戦争を続け、広島、長崎に原爆を投下されてようやく、同年8月14日、これを受諾。翌8月15日、国民は天皇の声明によって敗戦を知らされ、連合軍の統治下に置かれた。
敗戦後の東久邇宮内閣は、その後1ヵ月半というもの、GHQ(連合軍最高指令官総合司令部)統治の下、まったく政府機能を果たせず、ただボーッとしていた。そこでGHQのダグラス・マッカーサー最高司令官は、10月4日、交代したばかりの幣原内閣の首相を呼びつけ、「早急に日本国憲法を改正せよ」と命じる。
“早急に”というのは、近日中に極東委員会(ソ連、オーストラリア、英国、オランダ、中国)が結成され、GHQに対し指令がくることになっており、その指令には「天皇制廃止」が入っていることは必至。一方、GHQ側は、天皇制を温存する方針だった。というのも、天皇制を廃止すれば日本社会は混乱し全国規模の大暴動が起こって、民主化の作業が遂行できなくなる、と考えたからである。マッカーサーは、「これを鎮圧するためにはアメリカの100万人規模の軍隊と財政負担が必要になる」と、密かに本国政府に伝えている。
さて、GHQの指令を受けた幣原は即刻「憲法問題調査委員会」を発足させ、とりあえず1946年2月8日までに、憲法改正試案を作りGHQに提出すると誓約した。
ところが提出前の2月1日、毎日新聞がスクープ。その改正試案とは、1889年に制定した“明治憲法”の第1条から76条までをずらっと並べて、この項は変更なし、この項は削除、この項はちょっと手を加えるといった「切り貼り」を行なっただけのものだった。例を挙げれば、第1章第3条の「天皇は神聖にして侵すべからず」を、「皇位は万世一条の皇男子孫之を継承す」とした程度のものでしかなかったのである。
GHQはスクープされたこの草案を見て愕然!日本国憲法を日本政府に任せるわけにはいかないと決断した。そもそもポツダム宣言を受諾しておきながら、それを読んでいないのか?宣言に記載された軍国主義撤廃/民主主義の実現/言論の自由他の文言がひと言も入っていないではないか!そうこうしているうちに、日本政府は、2月8日提出の草案の結果を13日に聞きにくる。となれば、スクープを読んだ2月1日から13日までの2週間の間に、代案としての草案を作らなければならない。GHQは即座に20人あまりのチームでGHQ側の草案作りの作業を開始した。
こうした経緯の後、GHQは2月8日に提出された幣原案を、「これでは連合国側に出しても拒否されるに決まっている」と全面拒否。吉田外相以下は顔面蒼白となった。その後GHQの草案をもとに複雑な交渉が続く。まず、アメリカ側と日本政府との間でのせめぎあいに続き、日本の国会が英語版の草案を日本語に訳し、何週間にもわたって討議。語句の修正、条項の削除、条項の追加が行なわれた。こうして、現「日本国憲法」は、1946年11月3日公布、翌1947年5月3日に施行されたのである。
中でもGHQ案の「第2章 戦争の放棄――9条(1月号参照)」は、初めて日本国憲法に加えられた条項だった。一般市民は15年戦争の過酷な体験から、この「9条」を歓迎した。9条は国際的な誓約であり、特に15年間も日本の侵略を受け続けたアジアの民衆に対する日本国民の謝罪を含めての誓いだった――と、私は今も信じている。
永世中立国、非武装中立国日本!マッカーサーには9条に対する深い愛着と、自分が発案したというプライドがあった。彼は「日本はアジアのスイスたれ!」と誇り高く言い放った。日本の平和憲法は「“9条”により、日本が再度、信頼に値する国であることを世界に証明する手段」であり、「あれほど軍事的だった国でも、このように方向転換できる。世界の諸問題を平和解決するモデルとなれる。日本は平和の象徴になれる」と彼は、世界に向けて宣言した。マッカーサーの念願に「この(世界的な)理想主義を日本に」という想いがあったことは、容易に想像できる。
ところが1950年、朝鮮戦争勃発と同時に、日本駐在の米軍地上兵力を動員せざるをえなくなり、当時の副大統領リチャード・ニクソンは、「日本は再武装して改憲すべきだ」と勧告した。この逆転勧告に対し、「9条」はどうなっていったのだろうか?
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