■台湾の映画「セデック・バレ」を観る
台湾が、日本の植民地として統治下に置かれていた1930年に起こった先住山岳民族の武装蜂起「霧社事件」。その顛末を描いた脚本/監督 魏 徳聖の作品『賽コ克 巴(セディック・バレ/Sediq Bale)』が、東京・渋谷のユーロスペースで上映されているので観に行く。第1部、第2部連続の4時間36分という大作で、アカデミー外国映画台湾代表作に選ばれている。
題名にもなっているセディック族は、台湾中部の山岳地帯に住み、虹を信仰する誇り高き先住狩猟民族で、1930年当時には、闘った他部族の首を狩る「出草」という風習も残っていた。
当時、台湾総督府(日本政府の出先機関)は、彼らをはじめとする各山岳先住部族を、生蕃、蕃人(野蛮人)と呼んで卑下していた。映画では、男女とも顔に特殊な入墨をほどこし、独特な民族衣装を身にまとい、弓矢、山刀を用いた敏捷で猛烈な戦術によって、日本の警官や兵士を片っ端から、ばたばたと倒していく。思わず手に汗握る4時間半の映画であった。
実は私は、この「霧社事件」の取材のため、1998年に2度ほど、霧社の地を訪ねている。左の写真は、1930年の武装闘争を指揮したマヘボ社の頭目モーナ・ルダオの像を私が撮ったものである。そんなわけで、映画のストーリーよりも、私自身のフィールド・レポートを!と考え、その一部を以下に転載いたします。
■台湾・山岳先住民族の抗日一揆 ―― 霧社事件を取材する
1895年、日清戦争講和条約によって台湾は日本に割譲され、1945年の日本敗戦までの50年間、日本の植民地支配下に置かれた。1929年、中部山岳地帯の霧社周辺の未開地を開拓して日本統治の見本とするため、駐在所をはじめ神社、学校他各機関の建物および道路、橋などの架設工事が進められ、工事労務者として山岳先住民が強制的に狩り出された。過重労務に明け暮れる日々。人びとは狩猟もできず、畑も荒れ放題で、賃金も安く、生活苦にあえぐようになる。さらに建築用の木材はすべて、山岳先住民にとって聖なる山々から伐採され、肩にかついで険しい山道を運搬するよう命じられた。
こうして遂に、1930年10月27日、タイヤル族・マヘボ社頭目のモーナ・ルダオをリーダーとする一揆が起こった。この日、彼らは霧社公学校(地元民の小学校)と日本人小学校の合同運動会に集まった、子どもを含む日本人136名を殺害、重軽傷者は合わせて215名にのぼった(日本人と間違えられて首を斬り落とされた2人の台湾人もいた)。
報告を受けた台中州知事 水越幸一は、事態を総督に急報。台中分隊、花蓮警察隊、台北山砲中隊、歩兵第一連隊他が続々と霧社へ向かった。10月29日、4機の爆撃機が、ホーゴ社、マヘボ社、ボアルン社を爆撃。日本当局は「蕃人をもって蕃人を撃つ(この闘争に参加しなかった他の山岳民族を味方につけ、モーナ・ルダオ派を倒す)」を得策とし、味方蕃と称する500名を募って奇襲隊を組織。馘首賞与金を確約する。賞与額は、各社の頭目の首150〜200円、壮年男子の首100円、婦人の首30円、子どもの首20円。ちなみに一揆の主犯 モーナ・ルダオの首には2,000円の賞金が懸けられた。
10月28日から11月5日までに日本軍が派遣した部隊員は1,500人、警察や軍夫を含むと実に4,000人にのぼった。同時に大規模な爆撃も行ない、マヘボ、タロワン一帯に爆弾の雨を降らせたばかりか、11月8日、谷間に逃げ込んだ先住民に対し、「国際条約」を無視して毒ガス弾を投下した。
11月20日、味方蕃捜索隊は、マヘボ岩窟に近い森の中に、女性を含む総勢140名の集団自殺体を発見。12月12日、遂に50日間におよんだ事件は終了した。しかし、日本当局は投降した抗日先住民560人を「保護蕃」と呼んで収容所に隔離。15歳以上の男子は1人ずつ訊問され、抗日的な者はその場で処刑された。
こうして抗日先住民は1,236人から、わずか200人を残して絶滅。生き残った女、子ども、老人200名は、川中島(現 清流)に島流しにされた。
それから4年後の1934年、マヘボ社頭目のモーナ・ルダオの遺骨が山奥で発見された。検証によって彼は、銃を自らの下顎に当てて引き金を引いたことが判明、享年49歳。その後、行方不明とされたその遺骨は、1973年、旧日本の台湾大学医学部標本室で発見され、同年、霧社に戻されて埋葬された。
こうして山岳先住民の尊厳と栄光を取り戻したのである。 (次号に続く)
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