ドキュメンタリー映画『陸軍登戸研究所』(監督・編集・楠山忠之)を、渋谷の小さな映画館UP LINKで観る。日本映画学校・人間研究科の若い学生たちが、40人もの研究所関係生存者を執拗に追い、「戦争とは何か?」を問いかけた力作である。
この研究所は1939〜1945年、生物化学兵器、電波兵器、風船爆弾、中国紙幣の偽造など、さまざまな謀略戦秘密物件の研究、開発、動物実験他を行なった。現在は明治大学キャンパスになっているが、同大は2010年3月、敷地内の生物化学兵器研究所だった鉄筋36号館を改修し、「平和教育登戸研究所資料館」として公開している。私はその後、登戸研究所の所員として殺人兵器・毒薬の研究に携わった伴繁雄陸軍少佐著「陸軍登戸研究所の真実」と、ノンフィクション作家斉藤充功著「謀略戦 陸軍登戸研究所」を読了した。
■人体実験 伴繁雄の著作でショックを受けたのは、1931年6月、登戸研究所で開発した青酸ニトリールの致死量の決定、症状の観察、青酸カリとの比較などの人体実験のために、日本軍が占領した中国の南京病院に向かうのだが、そこに「関東軍防疫給水本部(通称・満州731部隊)石井四郎部隊長が(人体実験の)協力を快諾」との記述をみつけたことである。同書には「南京病院での実験の結果、青酸ニトリールの致死量は1cc。2〜3分で微効が現われ、30分で死に至った。経口より注射の方がよりよい効果を現し、皮下注射も効果あり」と人体実験の成果が述べられている。
私がなぜ731部隊石井四郎の記述にショックを受けたかというと、1993年、神奈川大学の常石敬一教授が企画し、全国巡回した『731部隊展』を手伝い、同年9月には常石先生を中心とした数人の研究メンバーの一員として、現地(旧満州・現中国東北部)平房の731部隊跡地を視察しているからだ。
731部隊は、専ら、化学兵器開発のための人体実験を行なった。広大な土地に塀をめぐらし、貨物列車の引込線を設置して、のべ数千人という中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人の抗日分子や思想犯などを拉致し、彼らを「マルタ」と呼んで、日常的に化学兵器開発のための人体実験を行なっていたのだ。数百人にのぼる人体実験の犠牲者たちを焼却したボイラー室の巨大な煙突の残骸は、旧・満州へのソ連侵攻直前の1945年8月、「石井四郎隊長ら責任者が爆破して日本に逃げ帰った時のままだ」との説明も聞き、その残虐性に震えが止まらなかった。
■偽札作り 登戸研究所産の偽札は精巧にできており、中国の5円札、10円札といった額面紙幣を45億円分も製造。偽札作りの目的は、中国経済の撹乱、現地での日本軍兵士のための食糧や物資調達、日本軍に雇われた中国人傀儡軍の給与支払いなどに使われた。斉藤充功著によると、ナチス・ドイツでも、イギリスを経済的に撹乱させ、同時にフランス、スペイン、トルコ、ポルトガル、スイス等各国から、大量の軍需物資と戦略物資を購入するために、総額10億5,000万ポンドを刷った、とあるから、戦争の裏面、暗黒面は共通であることに驚かされる。
■風船爆弾 最後に風船爆弾について―球皮は、コウゾの長繊維を用いた和紙を、コンニャク糊で張り合わせて作る。球体の直径は10メートルという巨大なもので、そこから19本の麻縄を垂らしてまとめ、高度保持装置を付けて、最下部に15キロの爆弾と4キロの焼夷弾2個を下げた形になっている。この作業には、女子挺身隊令によって勤労奉仕を義務づけられた13〜16歳の女学生たちがあたった。この風船爆弾は1944年11月、日本がいよいよ追いつめられた戦争末期に、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の三基地から9,000個がアメリカに向けて放球されたが、太平洋8,000キロもの長距離を飛行して、目的地に辿りついたのだろうか?
ドキュメンタリー映画の中で興味深かったのは、米国オレゴン州ブライで、ピクニックに来た牧師一家の中の1人が、松の根元に着地して埋まっている風船爆弾を「何だろう?」と思って引き出したところ、炸裂!6人が死亡したという。1996年6月、このことを知った、当時風船爆弾を作った女学生、田中哲子さんたち5人が、ブライを訪れ謝罪の祈りを捧げているシーンだった。偽札造り同様、風船爆弾の着想は、奇想天外という他はない。
愚かな人類は現在も、戦争のための化学兵器開発を止めようとはしない。今年のノーベル平和賞は、シリア内戦で使用されたサリンなどの化学兵器の開発・使用を禁止し、保有分の全廃を定めた「化学兵器禁止条約(1997年発行)」の規約に基づき設立された化学兵器禁止機関(OPCW)に決まった。とはいえ、10月14日(2013年)、正式に締結した(?)シリアを含め、締結国はまだ、世界190ヵ国に留まっている。
※追記 731部隊の膨大な生体実験資料は敗戦直後、米国に持ち去られ、それと引きかえに石井四郎以下重鎮は戦犯をまぬがれた。同じく陸軍登戸研究所の科学技術武官数名は、敗戦後、秘密兵器作成資料と共に米国に連行され、米国の秘密兵器の仕事に従事。そのまま永住した者もいるという。(斉藤充功著「謀略戦 陸軍登戸研究所」より)
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