2014. 7月
中学校の歴史教科書が危い!!
前回に引き続き、今回は育鵬社版と東京書籍版の中学校歴史教科書を読み比べてみたい。同時に私は、纐纈厚著『日本降伏―迷走する戦争指導の果てに―』(日本評論社 2013年12月8日刊)を読み進めている。この本は、1931年9月18日の中国・柳条湖付近で満鉄(満州鉄道)の路線が爆破された事件から日中戦争が始まり、1945年8月15日の、広島、長崎への原爆投下後の敗戦までの長い長い15年戦争は「一体、誰によって指導されたのか?」という疑問を解く貴重な資料である。これらを参考にしながら、中学校歴史教科書の上記2冊の比較を、(紙幅の都合で)沖縄戦に絞り、試みたい。
育鵬社版:沖縄戦―「4月(1945年)になると、米軍は沖縄本土に上陸し、激しい地上戦がくり広げられました。日本軍は沖縄県民と共に必死の防戦を展開し、米軍に損害をあたえました。また、若い兵士たちの航空機による体当り攻撃(特攻)や、戦艦大和による水上特攻も行われ、数多くの命が失われました。(略)沖縄の中学生や女学生の中には、従軍して命を落とす人も少なくありませんでした。米軍の猛攻で逃げ場を失い、集団自決をする人もいました」と記述。
一方、東京書籍版:沖縄戦は、「1945年3月、アメリカ軍が沖縄に上陸しました。日本軍は、特別攻撃隊(特攻隊)を用いたり、中学生や女学生まで兵士や看護要員として動員したりして強く抵抗しました。民間人を巻き込む激しい戦闘によって、沖縄県民の犠牲者は、当時の沖縄の人口のおよそ4分の1に当たる12万人以上になりました。その中には、日本軍によって集団自決に追い込まれた住民もいました」となっており、住民の集団自決が日本軍の命令によるものだったことを明らかにしているが、育鵬社版は、住民自らが集団自決を行なったと受け取れる表記になっている。
私は2007年9月の「月替りメッセージ」に、『その時、母は叫んだ!―沖縄戦「集団自決」―』のタイトルで、次のように書いている(情報 琉球新報社 沖縄戦特集 2005年刊行)。
1945年3月28日、沖縄県・渡嘉敷島の「集団自決」。村長の「天皇陛下万歳」を合図に、島北部の日本軍陣地近くに集められた村民たちは、村役場を通じて配られた手榴弾を石に打ち付けて炸裂させ、329人の命が失われた。
その時、「死ヌセイ、イチヤティンナイサ(死ぬのはいつでもできる)。手リュウ弾ヤ、シティレー!。ンナ、立テ!(死ぬのはいつでもできる。手榴弾を捨てろ、みんな、立て!)」と叫んだのは、当時6歳だったY・Kさんのお母さんだった。その日、Yさん一家(父、母、姉4人、兄、義兄、本人)9人は円陣を作り、兄と義兄が手にした手榴弾を、石に打ちつけた……。だが、爆発しなかった。その時、お母さんが絶叫し、一家9人は生きのびたのだった。「命どぅ宝」は、古くから伝えられた沖縄の人びとの魂の言葉だという。このお母さんを讃えたい。
数日後、私は渡嘉敷島のY・Kさんから電話を受けた。偶然、ネットで私のHPを読んだとのこと。私の問いに彼は、「日本軍兵士が村役場に手榴弾を配ったと聞いています」と答えたのだった。
沖縄戦で父母を亡くした県遺族会会長の仲宗根義尚さん(当時小学校4年生)は、「沖縄戦で“集団自決”が起きたのは、住民を巻き込む地上戦があったからだ。戦争の悲惨さの真実を、教科書を通して正しく子どもたちに伝えることこそが、人類の悲願である世界平和の原動力になる」と述べている。
前述の『日本降伏―迷走する戦争指導の果てに―』の「天皇の心境変化」の項で、著者は松平侯爵の伝言として「天皇(昭和天皇)は沖縄戦が完全に敗北のうちに終わり、沖縄がアメリカ軍の手に落ちる状況を見て、急速に“終戦工作”を支持するようになり、御上より総理に“戦争終結外交を考えてはどうか”とのお言葉があった」と、記述している。それでも戦争の主導権を握る陸軍の主戦派は、広島、長崎への原爆投下まで降伏しようとしなかったのである。
折も折、2014年5月28日、東京都教育委員会は、実教出版の高校日本史教科書の「使用は不適切」と都立高校全校に文書で通達。これに対し、政治の教育への不当介入だとして高嶋伸欣琉球大学名誉教授らが処分の取り消しを求める訴訟の第1回口頭弁論が、東京地裁で行なわれた。
教科書から次々と削除される集団自決、南京虐殺、「慰安婦」問題……子どもたちは過去の歴史の真実を学ばなければならない。自国が行なった戦争の、誤りは誤りとしての歴史認識を持つことこそが、東北アジアの平和に資すると、私は考えるのだが。