2016. 9月
オバマ大統領の来日 3日間の記録 ―2016年5月25日〜27日― そのW
■オバマ大統領の17分間におよぶ演説
鎮魂の赤い灯、その先に原爆ドームが見える。それを背に、オバマ氏の17分間におよぶ演説が始まった。
印象に残ったいくつかを、紹介しよう。
「71年前、明るく、雲ひとつない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました」「なぜ、私たちは、ここ広島を訪れるのか?10万人を超す日本人の男女、そして子どもたち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです」「いつか、証言する被爆者の声が、聞けなくなる日がくるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を、薄れさせてはなりません」「私の国のように核を保有する国々は恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追及する勇気を持たなければならない」「私の生きている間に、核兵器なき世界という目標は実現できないかもしれない。しかし、たゆまぬ努力によって、私たちは核の根絶につながる道筋を示すことができます」「広島と長崎は、“核戦争の夜明け”ではなく、私たちが選ぶことのできる未来、“道徳的に目覚めることの始まり”としての未来なのです」―ここでも、大統領の米国世論への気づかいからか、非人道的ではなく、道徳的と表現しているのが、私は気になるのである。
■被爆者、坪井 直さんと対話し、森 重昭さんと抱きあうオバマ大統領
演説を終えたオバマ氏は、招待席の最前列で聴いていた日本原水爆被害者団体協議会(日本被害者協)の代表委員、坪井 直さん(91)に、ゆっくり近づいた。坪井さんは杖をついて立ちあがり、右手を差し出して握手。左手の指を突き出してオバマ氏に言った。「プラハのあれ※(演説での約束)残っとるはずじゃ。被爆者はあなたと一緒にがんばる!」。これに対し、白い歯を見せて笑顔を浮かべて、頷いたオバマ氏の表情が印象的だった。
続いて、自らも被爆者で、被爆で亡くなった米兵捕虜の実態を明らかにし、遺族との交流を続ける森 重昭さん(79)が、感動のあまり涙を流すと、オバマ氏は肩に手をまわし、ゆっくりと抱きしめた。この感動的なシーンは、世界各国が放送した。
被爆者との対面を終え、安倍首相と「原爆ドーム」へ向かう途中、オバマ氏はつぶやいた。「広島に来ることができて、本当によかった。これからやるべきことが、たくさんある。きょうは、あくまでスタートだ」と。
あと任期8ヵ月を残すオバマ氏。最後の年に、現職大統領として、世界最初の「被爆地訪問」が実現したことは、オバマ大統領のレガシー(遺産)として、効果的な意味を持つに違いない。このあと6時40分、専用ヘリで広島へリポートから岩国基地へ。岩国基地から専用機でワシントンへと帰国の途につく……これで、日本への旅の3日間の記録は終る。
■オバマ大統領帰国後の新聞記事より―「推敲重ねた演説文」
5月31日の新聞では、「広島での演説は、原爆投下が米国の責任に触れないことが前提であるため、オバマ氏側近が推敲を重ねた」との記事が目立った。テレビでもオバマ氏自筆の修正文が、繰返し紹介された。
例えば冒頭の、「71年前、雲ひとつない晴れ渡った朝、死が空から降り……」の、なにごとかと思わせる文言も、“米国が投下した”と言えない米国大統領の立場から修正したものだろう。一方、「科学による、これらの発見は(略)殺戮の道具に転用することができるのです(略)広島が、この真実を教えてくれます」の部分は、殺戮と広島を同じ文脈で表現することで、オバマ氏個人の胸にたぎる「核廃絶」の思いを、精一杯表現したのだろうと、推察する。
振り返れば、2009年、「核なき世界」に向けて取り組む決意を表明した、チェコ・プラハでの演説は、彼の「理想」であって、核保有国・米大統領としての「現実」は、それを許さなかった。理想と現実のはざまで苦しんだオバマ大統領の8年間だった―と言えよう。だが、別れ際にオバマ氏が安倍首相に語った言葉、「これからやるべきことがたくさんある。広島はあくまでスタートだ」を信じて、大統領職退任後の、彼の活躍に期待したい。