第1回 

 私と性教育──なぜ?に答える

 

 


 

2004.3

性を語る会代表  北沢杏子

 
         
 

  「なぜ、性教育を?」とよく聞かれます。私がライフワークとして性教育を始めたのは1965年。文部省(現、文部科学省)の婦人教育課長、塩ハマさんから、思春期の子どもをもつ母親への性教育教材『明日では遅すぎる!』の制作を依頼されたのがきっかけでした。
 当時、文部省には男性有識者たちが作成した「純潔教育指導要領」というのがあって、処女性の尊重、貞操観念の確立といった“歌い文句”では、あまりにも時代にあわなかったからでしょう。

 同じ頃、少年院入所少年(少女)の矯正教育教材、ドキュメンタリードラマ『光を求めて』の制作依頼が法務省教育課からきて、以後、数年間、私は全国各地の少年院を取材するようになります。
 加えて、私の子どもたちの二次性徴期が身近になり、性に関するさまざまな質問に答えなければならない必要性に迫られるようになったからでもありました。
 そこで、私は、心理学者、故、時実利彦教授、哲学者、故、堀秀彦教授の許に連日のように通ってレクチュアを受けるようになります。
 それらの学問の分野は私にとって、生まれて初めてのエキサイティングな体験でした。

 なにしろ、私の卒論は『西鶴一代女』(江戸文学)で、学生時代は歌舞伎と能、狂言、古典落語に没頭していたのでしたから。卒業と同時に入った舞台芸術学院では、発声やバレエ、パントマイムなどの肉体訓練に明け暮れ、その後、松竹京都撮影所シナリオライター養成所で商業演劇の特訓を受けたという経歴の持ち主です。
 性教育に携わる前は、日本放送作家協会会員として、ラジオやテレビの台本を数年間書きつづけ(現在も、当時書いた『ウルトラQ』の人気にはびっくりですが)、その間隙を縫って、劇場にかかるミュージカルや児童演劇の脚本を書いていたのです。

 でも、いま振り返ると、「性教育を演劇的な手法で創る」ところに私の独自性が発揮されているのかもしれません。
 
 1969年、私は放送作家の仕事をやめ、性教育専門出版社「アーニ出版」を(私の家の一室に机と電話1台を置いて)設立します。資本金30万円という、きわめつきの零細企業です。
 こうしてスタッフ2〜3人という超労働の日常の中で、1970年から1980年にかけて毎年のように性教育の先進国といわれるスウェーデン、デンマーク、ドイツ、イギリスの学校の性教育授業参観や本の翻訳・出版に熱中、'80年以降はアメリカでエイズの取材と啓発運動に参加します。 
 
 (紙幅の都合で)次回は、『性教育は人権教育』という視点から、私がどのような運動にのめりこんでいったかをお伝えしたいと思います。

 
 

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