北沢杏子のWeb連載
第179回 私と性教育――なぜ?に答える 2019年1月 |
プロレタリア作家・小林多喜二が収監され、拷問死した旧・中野刑務所表門に想いを馳せる
■息子(7歳)の小学校に、旧・中野刑務所の表門を残すか?
昨年(2018年)5月の連休に、小学校2年生の男の子(7歳)を連れて、友人(大学教授)が八ヶ岳山麓の私の山荘にやってきた。東京・中野区に住む彼女の話題は、旧・中野刑務所の表門を保存するか否かで、男の子の通う小学校の保護者たちがもめていることに集中した。
■旧・中野刑務所・表門とは?
旧・中野刑務所は、戦前・戦中の政治犯・思想犯らが収監された刑務所だ。現存する表門(高さ約9メートル)は1915年完成。著名な建築家・後藤慶二の設計で、東京大空襲にも奇跡的に残った、後藤の唯一の現存作品である。
中野区は12月6日(2018年)、この「表門」を、小学校移転予定地内に現地保存する方針を固めた。歴史的な価値に加え、煉瓦造りの名建築として残すよう、区民や、その土地に建つ区立小学校の(私の友人を含む)保護者たち、専門家からの意見が上っていた。
それを基に区は、東京都文化指定を目指し、公開・活用すると表明。今後、表門と約15,600平方メートルの敷地を国から購入し(森友学園問題のように、安倍政権への忖度がないよう、われわれ市民は監視しなくちゃぁね!)、2023年度に区立「平和の森小学校」を移す計画だとか。
表門は、写真を見るだけでも、価値ある建物だ。小学生たちが、この門を見ながら通学し、戦前・戦中の政治犯・思想犯らが、この刑務所に収監され拷問死したことを学べば、「平和の森小学校」の校名に恥じない人間に成長できるだろう……いや、現実は、そんなことは一切学べない、文科省・教育指導要領の「はどめ規定」が幅を効かす教育体制である。
■政治犯・思想犯として中野刑務所に収監された小林多喜二
「おい、地獄さ行ぐんだで!」で始まる小林多喜二の小説「蟹工船」は、1950年代、血のメーデー※を体験した私たち学生の必読の書だった。小林多喜二は1933年2月20日、プロレタリア文学者、思想犯として特高警察が逮捕、この中野刑務所に収監された。
彼は拷問により、その日のうちに虐殺された。満29歳と4ヵ月の生涯だった。
今回、本稿を書くにあたり再読。思わず引き込まれて読了した。紙幅の都合で荒筋を紹介したい。
一群の蟹工船とは、ロシア・カムチャッカの領域に侵入して蟹を獲り、缶詰に加工するボロ船をいう。小説「蟹工船博光丸」には、季節労働者として北海道・東北地方から雇い入れた農夫、抗夫、漁師、土方、学生、貧困少年たち300人が乗り込み、漁夫、工夫、水夫、火夫、雑夫などの業務につかされた。
博光丸の監督は、自分の成績をあげるため、労働者に過酷な時間外労働を強い、病人を放置し、死人を海に投げ入れるといった行動を平然ととり続ける。
「誰が仕事を離れたんだ?この野郎!」監督はポケットからピストルを取り出し(略)「水を持って来い!」。そして、桶一杯の水を受け取ると(略)過労のために倒れ、床に置き捨てにされた雑夫の顔に浴びせかけた―これは引用の一例だが、このような非人間的な搾取に耐えかねた労働者たちは、ストライキに入る。そして、各職種の代表者9名が、船長、監督、工場代表、雑夫長らに対し、労働者全員が署名・押印した「要求事項書」を突きつけた。監督がピストルを向けるや、労働者代表の1人が叩き落し、頬を殴りつけた(略)、船長室の窓が凄い音を立てて壊れ、労働者群の「殺しちまえ」「ぶっ殺せ」「のしちまえ」の大音響が押し寄せた(略)。
その時、ハッチの入口で見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってくるのを発見。「しまった!」労働者代表の学生がバネのように跳ね上がった。だが、労働者たちは「日本帝国の軍艦だ。俺たち国民の味方だ」と叫び、ドヤドヤと甲板に駈け上がり、「帝国軍艦バンザーイ!」と叫んだ。
しかし、駆逐艦から出された3艘の汽艇が横付けにされるや、銃剣を擬した水兵が乗り込み、あっという間に代表の9名を逮捕、駆逐艦で護送されていく……著者小林多喜二は、この小説の終りに「附記」として、次のように記している。
「『組織』『闘争』―この初めて知った偉大な経験を荷って、漁夫、雑夫らが警察の門から、さまざまな労働の層に入り込んでいった」と。
明治以降の日本の戦闘的民主主義文学の始まりを、肌で感じると同時に、1950年代の、私の若き日の闘争に思いを馳せたひとときだった。
※ 1952年5月1日(第53回メーデー)、東京の皇居外苑で起きた、デモ隊と警察部隊が激突、戦後の学生運動で初の死者を出した。
写真は「血のメーデー」のようす。デモ隊の若者らが、警察部隊と激しく衝突している。(撮影/高岩 震)