北沢杏子のWeb連載
第185回 私と性教育――なぜ?に答える 2019年7月 |
「優生思想」を読み解く 日本の場合 ―そのU―
■植松聖、緊急「措置入院」―2016年2月19日―
植松は大学在学中、小学校で教育実習を経験し、教員免許を取得、障害者支援ボランティア活動にも参加した。
その後、2012年12月、津久井やまゆり園の臨時職員に、2013年1月からは常勤職員として雇用されたが、入所者の手首に腕時計の絵を描くといった不審な行為を行うなど、勤務態度は良好とはいえなかった。
2016年2月頃になると、「入所者は、自分たちが手を貸さなければ生きられない状態で、本当に幸せなのか?」「優しく接することに意味があるのか?」「障害者は安楽死させたほうがよいのではないか?」などと口走り、「障害者が生きているのは無駄だ」と書いたビラを、勤務先の「津久井やまゆり園」の周りで配るようになっていったという。
2月18日には、同僚たちに向かって「(園内の)重度障害者を殺す」と発言。危機感を抱いた施設長らは、植松と面接。彼は「自分も仕事を続けることはできないと思う」と、自主退職を申し出た。
園はその直後、津久井警察署に相談。通報を受けた県警は市へ。市は翌18日、相模原市の北里大学病院に、「措置入院※」処置をとった。
植松は入院直後の尿検査で大麻陽性反応が出たため、「大麻による精神障害」と診断され、精神保健指定医の「他者を傷つける恐れが非常に高い」との報告から、他の入院患者への悪影響を懸念して、隔離された居室をあてがわれた。
担当医によると、植松は、ドアを蹴ったり大声を出したりしたが、翌日には粗暴な行為はなくなった。ただ、幾度となく「ヒトラーの思想が降りてきた」とつぶやくくのが不審だったという。
■「措置入院」先を退院―2016年3月2日―
「入院時はおかしかった。大麻が原因だと思う。考えが間違っていた」などと訴える植松の、「内省」とも受け取れる様子に、担当医は「症状が消退した」との診断を下し、退院させる。こうして、措置入院は13日間で終った。
退院後、彼は医師の指定どおり3月に2回、同病院の外来を受診し、市福祉事務所で生活保護を、ハローワークで雇用保険の支給を申請した。
こうした行動から、一見、彼は“社会復帰に取り組もう”としているようにもみえたが、一方、友人たちに「(障害者を)殺しに行こう」と持ちかけ、たしなめられると激しく反発したという。
事件前日の2016年7月25日、植松聖の車がファストフード店の前で鍵をつけたまま放置されているのが見つかり、警察署が鍵を持ち帰る。植松は署で車の鍵を受け取り、ファストフード店を出発。その後ホームセンターに向かい、ハンマーや結束バンドを購入する。
翌26日午前零時ごろ、車を運転して相模原市に向かう。午前1時40分、車を降りて園に向かう植松の姿が防犯カメラに記録されている。こうして、入所者19人を殺害、24人に重軽傷を負わせた事件は、その20分後に起こったのだ。
■有識者が指摘する「障害者集団入所施設」の問題点
有識者は、「通常の社会では、一般の青年層、壮年層が大集団で、しかも期限なしで生活するなどは、あり得ないことだ」と指摘する。
が、「やまゆり園」には、知的障害者157人が、地域から隔離された施設に長期間入所していた。これが短時間に死者19人、重軽傷者24人という大量殺傷事件の要因の1つと考えられる。
日本では1960年代、政府の「隔離政策」によって知的障害者に限らず、身体障害者、精神病者、重複障害者、癩患者(ハンセン病)の、大集団入所が施行された。
集団入所施設の推進は、実は国の予算の「財政効率化」が目的だったと、専門家はすっぱ抜いている。現在も、こうした大規模施設は、全国に2,600ヵ所あり、約13万人が生活している。
「津久井やまゆり園」事件を受け、都道府県および政令指定都市は、措置入院・退院後の患者の支援計画、患者が引っ越した場合の、その個人情報を自治体間で共有する仕組みについて、2018年4月の施行を目指すと公表した。
この厚労省の「精神保健福祉改正案」に対し、有識者の1人は、「むしろ、時代遅れの隔離収容型の精神保健医療福祉体制からの脱却が必要」「専門家と当事者が対等な立場で、政治・治療・支援のあり方を決定するなど、精神科病院も抜本的に改革しなければならない」と提言しているが……。
■「ヒトラーが降りてきた!」植松聖の優生思想とは?
話を、もとに戻そう。植松聖が「措置入院」の処置を受けたとき、担当医は、彼が「ヒトラーが降りてきた!」と繰り返しつぶやいていたと報告している。つまり、“やまゆり園殺傷事件”は、ナチス・ヒトラーのホロコースト(ユダヤ人殺戮)の思想に洗脳されて実行したんだ!と主張したらしい。
というわけで、私はナチスドイツの優生思想について調べ始めた。次号はその報告である。