北沢杏子のWeb連載
第187回 私と性教育――なぜ?に答える 2019年9月 |
「優生思想」を読み解く 日本の場合 ―そのW―
■患者たちは地下のガス室へ―1938〜1941年―
ハダマーのガス室は地下に設置されていた。縦5m、横3m、高さ2.4mのガス室はシャワールームに見せかけた造りで、シャワーのノズルもあった。
看護師長は「お疲れでしょうからシャワーを浴びて、体をきれいにしてから休んでください」と患者らに伝える。患者らは、疑いも抱かず、看護師に先導されて“シャワー室”への階段を、行列を作って降りていく。着いたら服を脱ぐ。そしてガス室に入る。
全員(約20人)が入室したら、看護師が外からドアを閉め、鍵をかける。そして、ヴァールマン医師が、シャワーならぬ毒ガスのノズルを押す。
彼はノズルを押した後、ドアののぞき穴から見守るのが常だった。患者らは数分すると眠気に襲われ、その数分後には死んだ。まさに医師らの言う「安楽死」だったのだ。
こうして20分後、ガスは取り除かれ、ヴァールマンが入室して、全員の死亡を証明した。遺体は、ハダマー病院で働く軽度障害の患者らによって、同じく地下室に設けられた火葬場にストレッチャーで移され、焼却された。
ガス室で殺された患者らの遺体から、特別な訓練を受けた者が、金歯を抜き取った。金歯は戦争資源としてベルリンに送られ、溶かされた後、帝国銀行の鋳型に入れられ、「T4計画中央会計局」が管理した。
また、神経病理学者ユリウス・ハーラーフォルデン教授は、犠牲者の大人と子ども600以上の脳を受け取り、実験用に使った。そして、脳疾患遺伝病の著名な専門医となった。
精神病院の周囲の村民たちは、絶え間なく病院の煙突から立ち上る黒い煙と、たちこめる臭気に、病院内で何が起きているのか?と噂しあっていた。
そんな村民たちの前を、灰色のバスは、規則正しく週数回、満員の乗客を乗せてやってきた。そして、帰路のバスには乗客はいなかった。
現在、ベルリン・ティーアガルテン通りには、「灰色のバス」の記念碑が建っている。
■死を覚悟で「T4作戦」に抗議した司教
1941年8月3日、ミュンスター市のカトリック司教フォン・ガーレンは、説教壇に立ち、「T4作戦は“生きるに値しない”とみなされる者の抹殺、つまりその存在が国家にとって生産的でないと見なされた場合に、何の罪もない人間の殺害を許可する思想です。(略)働けない病人や弱者、不治の者、衰弱した老人を殺すのです」。
「私(司教)はここに宣言します。皆さんも私も、生産的なときにだけしか生きる権利はないのでしょうか。(略)『汝殺すことなかれ』という神聖な戒めが侵されるのみならず、黙認され処罰を受けることなく実行されるなら、人道もドイツ人の名誉も地に落ちるでしょう」と訴えた。
ガーレン司教のこの説教は数万単位で印刷され、ドイツ全土に届けられた。この行動は、まさに当局側に襲われ、殺される命がけの抵抗であった。
■ヒトラー、「T4作戦」を停止!その理由は?
1941年8月24日、ヒトラーは「T4作戦」の停止を命じた。というのも、その頃、ドイツ軍は、ロシア作戦の真っ只中で、戦局は苦難を極めていた。ヒトラーはドイツの勢力が優位にあるうちに、T4作戦より民族浄化=ユダヤ人殲滅の方が本命だったのだ。「T4作戦計画は、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)のリハーサルだった」と伝えられたのは、ヒトラーが、戦争を始める前からユダヤ人殲滅を目指していたからだ。
故に、T4作戦はあっさり停止し、ユダヤ人絶滅作戦に熱中。600万人のユダヤ人殺戮に移ったのだった。
ここで、「T4作戦」「ホロコースト」以前に、民族浄化遂行のために行った「断種政策」にも言及しなければならない。