先月は私が、1965年から性教育に携わるようになった動機と、性教育専門の出版社アーに出版を設立(1969年)、教育教材ビデオの製作や教育図書の著述・翻訳・出版に力を注いできたことをお話しました。今月は、それらと平行して、どんな運動にかかわってきたかを振り返ってみます。
1980年、私はフィリピン・ミンダナオ島、南コタバト州の山奥に住む先住民族の子どもたちの小学校を建てる運動に参加します。「里親が1人増えれば子どもが1人学校へ行ける」をキャッチフレーズに。いまでいう、フォスター・ペアレンツ運動ですが、1980年のころは珍しく、新聞に3回ほど連載記事を書かせてもらったら、あっという間に、3,500人の会員が集まりました。
現在は、1,500人ほどに減りましたが、10年間で30校もの校舎を建てました(といっても、高床式のニッパ椰子で屋根を葺いた簡素なものですが)、識字運動の成果には目覚しいものがあります。
同じ1980年、日本女性学会というフェミニストの学際的な研究と運動を推進するグループに参加。1982年には、母体保護法(旧、優生保護法)の人工妊娠中絶の要件、「妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」の中から「「経済的理由を削除せよ」との改正案を執拗に繰り返してきた「生命尊重国会議員連盟」(300余人)に対する反対運動のデモを豪雨の中で行なったりもしてきました。現在、年間46,000件といわれる20歳未満の女性の中絶も(中絶を肯定するわけではありませんが)、もし、この私たちの運動によって経済的理由が削除されていたら、大昔に制定された堕胎罪がまだ活きていますから、少女たちも医師も罪に問われるかヤミ中絶に走ることになります。
1986年、ニューヨークで開かれた「女たちよ、連帯してエイズと闘おう」運動に加わり、1994年に日本(横浜)で開催された「第10回国際エイズ会議」以降、ボランティアとして『エイズフォーラム』の分科会のひとつを担当。以来、10回(10年)に及んでいます。
'95年には「薬害エイズ訴訟の運動に参加。厚生省(現厚労省)の建物を『人間の鎖』で囲もうと、川田龍平さんのもとに、全国から3,000人の若者たちが結集。『謝ってよ!’95』が盛りあがり、結果的に和解が成立しました。
1992年、ピースボートの水先案内人として、旧日本軍・性奴隷制(いわゆる従軍慰安婦)問題を告発。この運動は、故、松居やよりさん、韓国の尹貞玉さん、フィリピンのサホールさんによる『女性国際戦犯法廷』(1999年)へと発展していきます。
1998年、国連人口基金によるリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)のIEC(インフォーメーション・エデュケーション・コミュニケーション)の専門家派遣員として、ラオスの首都ヴィエンチャンに派遣。翌'99年には、南のサバナケット県へ、2001年には北のルアンブラバーンに派遣され、ラオス全土の若者や女性たちに、避妊、性感染症とエイズ、乱用薬物防止教育を行なうという大きな任務を負うことになります。さらに、国際協力事業団によるリプロヘルスIEC事業専門家派遣員としてチュニジアの首都チュニスへ(2002年)…と拡大していきました。
この間、アジア各地(中国のウイグル自治区、朝鮮族自治区、モンゴル自治区、チベット自治区、そして、ベトナム、台湾他)に取材に出かけましたが、いま、振り返ってみると、1980年にフィリピンの先住民族の子どもたちの識字運動に参加して、ガス、水道、電気はおろか食べものも十分にない地域で鍛えられた強靭な体力が、その後の僻地での取材に大きく役立ったのでした。
次回は、1987年にたちあげた「性を語る会」(会員/国内外に2,000人余)の活動と、その活動による私の意識の変革についてお話しましょう。
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