北沢杏子のWeb連載
第88回 私と性教育――なぜ?に答える 2011年6月 |
災害と女性―災害時下の性暴力・性虐待・性支配―そのT
いま手許に資料集『災害と女性―防災・復興に女性の参画を―』(ウィメンズネット こうべ編 2005年11月刊)があり、その冒頭の頁に私の神戸新聞寄稿文が載っています。タイトルは「あれから10年―言いたいことがいっぱいあった!」。“あれから10年”とは、阪神・淡路大震災(1995年1月17日)のことであり、“言いたいこと”は、災害時下での性暴力、性虐待、性支配に苦しみながら、助けを求めることも告発することもできずに耐えなければならなかった女性・子どもたちの叫びです。
また、資料集の最終頁には朝日、読売、毎日、神戸新聞、女性ニューズなどの記事が転載され、2005年4月13日付朝日新聞『女性被災者の目で』には、「阪神大震災後に現地入りして、被災地の女性たちから話を聞いたという性教育専門家の北沢杏子さんは“女性への暴力の可能性も視野に入れ、相談窓口や女性のためのシェルターの設置なども織り込んだ災害対策を”と話している」と書かれています。
東日本大震災後、こうした私の「災害時下の女性への性暴力」ルポを知ったさまざまなメディアが取材に来るようになりました。仕上がった記事には、私の話を克明に伝えたものもありましたが、性暴力の描写(強姦、輪姦、夫からのDV、子どもへの虐待他)はカットし、「幼児の様子が急変したら抱きしめてあげて」とだけの記事もありました。
これでは、なぜ幼児の様子が急変したのか、その原因がわからない。私が話したのは、災害から3ヵ月後、避難所の体育館から大勢の人びとが職場へと出勤し、人影もまばらになった校庭の隅で遊んでいた幼女に、外部から侵入してきた露出症の男がいきなり性器を露出、その口の中に性器を押し込んだという性虐待事件でした。
ビデオドッグ代表の田上時子さんは、自らもレイプサバイバーと公表したあとで、「性虐待では殆どの場合、子どもの性器にペニスが入れられるのではなく、口に入れられます。その後、子どもはガラッと違った食欲嗜好を持つようになり、いままで食べていたものを食べなくなったり、飲めない、飲み込めない、夜泣きが始まる」と語っています。
私は、前述の取材者に対し、災害時の性暴力を「露骨すぎる」とカットすることに異議を申し立てると共に、私が書いた記事『災害と女性―性暴力・性虐待・性支配にNo !を―』※をここに転載し、3.11東日本大震災および原発事故の被災地への警告としたいと考えた次第です。
『災害と女性―性暴力・性虐待・性支配にNo !を―』
2万5千人にのぼる犠牲者、行方不明者を出し、加えて原発事故を起こした3.11東日本大震災。連日、映像で流される被災者の方々の姿に胸が締めつけられる。
私はここに、今回の大災害の、特に“女性と子どもへの対策”に資するのではと考え、1995年に起こった阪神淡路大震災時に、各避難所を回って「性暴力・性虐待・PTSD(心的外傷後ストレス障害)」の被害者からの聴き取りと相談の巡回ワークショップを行った際の実況を報告する。
あの時、行動を共にしたのは、私が代表を務める「性を語る会」関西の会員で、主に保健師や教職員、女性支援プロジェクトのメンバーたち。巡回したのは神戸、尼崎、西宮の避難所になっていた小学校の体育館である。当時避難所には、まだ5,200人もの被災者がいた。
■暗闇のガレキの中で
誰かが背中のリュックを捕まえる/顔にビニールシートが被される/両腕をすごい力が捕える/あっという間にガレキの闇の中で。
まるで轢き殺されたような/泥と唾と精液に塗れた彼女を野晒しにし/去り行く男たちの笑い合う声/私はもう殺されたのだろうか。※※
阪神大震災が起った数日後、私は友人の消息を訪ねて半壊の家並の中をさ迷っていた。両側のガレキと化した家屋は青いビニールシートで覆われ、その下敷きになって圧死した方を弔う花束が置かれてあった。あとになって上記の詩にあるような、半壊の家々を覆っていたビニールシートをかぶせての強姦、輪姦があちこちで起こっていたことを知るのだが、その時は想像もつかなかった。
こうしたどさくさまぎれの性暴力、性虐待が横行し始めるのは震災後1ヵ月過ぎたころからで、2月、3月がピーク。私たちが巡回を始めた四月に入ってからは、不自由な避難生活のストレスからくる無月経や膀胱炎、カンジダ症。また、子どもへの虐待、夫からのDX、強姦・輪姦による妊娠の中絶とその費用の相談などに移っていた。
被災地の女性と子どもの上に、どのような性暴力・性虐待が起こっていたのだろうか?(次回へ続く)
※ 2011年5月10日付「女のしんぶん」 女性会議発行
※※ 詩・柳川理恵 女たちが語る阪神大震災 (ウィメンズネット・神戸編 木馬社館 1996年刊)