北沢杏子のWeb連載
第95回 私と性教育――なぜ?に答える 2012年1月 |
特別支援学校での90分間の性教育授業 そのU
朝、目を覚ますと私はベッドの枕元の壁に貼った1枚の写真に「おはよう」と呼びかけます。それは、1ヵ月ほど前に行なった兵庫県M市の市立特別支援学校児童・生徒対象の私の勉強会風景の1コマです。
そこには車椅子を押す中等部1年のA君。私が持っていた教材の“生まれたばかりのあかちゃん人形”を抱きかかえた車椅子の小学部3年のB君、そして床に膝をついてB君に優しく手を差しのべている校長先生が写っています。
B君は、頭も顔面も硬性マスク付ヘルメットで覆われ、2つの眼だけが輝いています。両腕の前腕部も車椅子の肘掛けにマジックベルトでしっかり固定されていて、唯一、自由になる両手で、人形をしっかり抱いているのです。
はじめはB君がなぜ、硬性マスク付ヘルメットで頭や顔全体を覆っているのか、両肘とも車椅子の肘掛けの部分に装具で固定されているのかが理解できませんでした。ただ、私に向かって一途に開かれたその美しい眼に、そして車椅子を押す中1のA君の自信に満ちた姿にひかれたのです。 A君は、小学校6年生までは普通校の特別支援学級に通級していたのですが、中学進学を目前にしたある日、自らこの児童・生徒数18名という小規模校を見学し、入学を決めた、という軽度の知的障害児でした。この学校に入学したA君は、その能力を発揮してリーダー的存在となり、こうしてB君の介助まで引き受けるようになったとのこと。写真にうつっているA君は、腕組みをして車椅子の後に立ち、校長先生とB君との対話が終るのを我慢強く待っているのです。
私はよく、障害児が通う特別支援学校の勉強会や保護者への講演などに出向くのですが、こんな重装備の子どもを見たのは初めて。そこで学術書などで調べてみると、レッシュ・ナイハン症候群という、一種の脳性運動障害で、1968年にLeschとNyhanという米国の小児科医が発見したという比較的新しい脳性疾患の1つらしい。症状としては、自分の歯で下唇を噛む、手の指を口の中に入れて噛む、当てると痛い硬いもの(壁や柱など)に、頭、顔、手などをぶつけるといった自傷行為を繰り返すのが特徴だとか。
学術書によると、この精神疾患は原因も不明、治療法もまだ研究途上らしく、他児の臨床例から、幼児期の激しい自傷行為は装具で防備すること/家族や周囲の人びとは、対象児の欲求を察知して精神の安定をはかること/小学校に通う年齢になると、興味の対象が広がるため、自傷行為はやや少なくなること/また、友だちとの交流により簡単な会話や自分の意思表示もできるようになり/それを契機に自傷衝動へのコントロールも次第にできるようになっていく――などの記述がありました。ただし、欲求不満がつのると、全身を弓状にそり返すアメーテーゼ様運動が起こり、硬いコンクリートの壁などに体ごとぶつける自傷行為におよぶこともあるとか。
その日私は、思春期の児童・生徒たちの「からだの成長」や「あかちゃんの誕生」について、いくつもの教材を使って授業をしたのですが、中等部の生徒の横に、ベビー服を着た“生まれたばかりのあかちゃん人形”(身長50cm、体重3,000g)を立たせて比較しながら、1人1人の成長を褒めちぎったのでした。B君は、その様子に魅せられたのでしょう。介助のA君に「あの人形を抱っこしたい」と意思表示し、A君に膝の上に“あかちゃん人形”を乗せてもらって、私のところまで報告にきたのです。
勉強会のあと、見学した保護者の方から「おかあさん人形を使ってのあかちゃんの誕生、子どもたち参加型のプライベートゾーンの理解、そして絵カードを見せながらのモゾモゾ(性器いじり)をしていい場所、悪い場所の説明など、いつのまにか、はずかしいという気持ちもなくなって納得。これから思春期を迎える下の弟たちにも、今回の勉強を参考にして伝えていきたいと思います」との感想文が寄せられました。
私の今回の体験やレッシュ・ナイハン症候群の知識などは、まだまだご家族や特別支援学校の先生方のご苦労の足元にも及ばないでしょう。でも、私はB君の自分の欲求を遂げた輝く瞳に、そして車椅子を押しているA君の自信に満ちた表情に、将来の「希望」をみるのです。人間の「生きる力」を感じるのです。
特別支援学校の子どもたち、先生たち、保護者の皆さんから、沢山の学びと感動を与えられた今回の勉強会でした。